メモ書きA
青字は私の文です
*ブッダは先ず、私たちが生きて行くうえにおいて生まれつき持ち合わせている
我愛というものを肯定し、「自分自身がもっとも愛しいと思うのはあたりまえのことである」
と答えられた。続けて、「自分自身を愛しいと知るものは、他の人も同じ思いであることを
知らねばならぬ、ゆえに他の人を害してはならぬ」と他の人への慈しみを諭されているのです。
*輪廻で何に生まれ変わるかは、前世の行為「カルマ(業)」によって決まるとされています。
もちろん、前世で何をしていたかなど、誰にも見ることができません。
それが見えると主張する霊能者はでたらめを言っているか、そのような幻覚を見ているに
すぎない。
「無我説」とは釈迦がとった輪廻転生を否定するもっとも抜本的な方法です。
それは「輪廻の実体となるアートマン(魂、自我)はない」というもの。
輪廻とは、肉体が滅しても存続する自我、すなわち魂が別の新たな生命に宿るという
考え方なので、主体となる自我がなければありえません。
量子物理上、死ぬと魂も自我もプラズマ化して宇宙へと拡散してしまいます。
臨死体験をしようが、悟りを開いて一瞬、死後の世界を垣間見ようが、死後の世界も前世も、
今を生きている人間の脳が考えるイマジネーションの産物であることは誰にも否定できません。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」が見もの。
*主人公の明智光秀を良く描くために、信長を必要以上に悪く描くんじゃないかと。
光秀が寺社に優しいっていうイメージは信長を倒したからそう誤解されたのだろうか?
実際は光秀って寺社に容赦なかったのに。
比叡山が焼き討ちされたのは信長と戦っていた 浅井、朝倉に加勢したからだろ。
浅井、朝倉が比叡山に立て籠ったとき信長から「中立を守ってくれ 」と言われたにもかかわらず
浅井、朝倉に味方すりゃ そりゃやられるでしょ。
しかも酒池肉林だったってマジ?坊主よりも女、子供が多かったといわれているのも納得できる。
比叡山へ総攻撃の前日に「本当に攻撃してくる のか?」と驚いて信長に黄金を届けに行く
お粗末さだが時すでに遅し。最澄が円戒で受戒を無くしてから日本に正式な坊主はいない。
あいつら世界基準では全部自称僧侶。まぁ、僧侶じゃ無いんだからいいだろう・・・ネットより
*寺院の戦後最大のヒット商品と揶揄される水子供養。
1970年代半ごろ、ある宗教団体と墓石屋が「水子地蔵」を大量生産・
大量販売したことにある。これが当たった。
当然、他の神社仏閣や新興宗教団体もマネをするようになり、日本に「水子供養」が
定着するようになった。」とあります。
水子供養は、一部の尼寺で行われていたことを除いて、ほとんどの寺院では戦後の
「水子供養ブーム」に乗って、現在になって盛んに行うようになったものです。
古い歴史があるものではないので、ご注意ください。
「水子供養の説明のほとんどに、胎児が成仏できずに苦しんでいるとか、
賽の河原で苦しんでいると書かれていたり、母親にたたりがあるとか、
兄弟や子や孫の代まで祟る。と、脅しのような文句が見られますが、歴史的には浅いのですから、
その文句は間違っていることが判ります。
本当にたたりがあったり、苦しんでいて可哀想なら、昔から供養をしていたはずです。
ごく最近まで日本の仏教界は胎児の死亡にまったく興味がなく、供養すら行わなかったことを
知ってください。 それにほんとうの仏教では、亡くなった命は静かに涅槃(命の元)に
かえり行くものとされていて、もちろん「賽の河原」もなければ、
「たたり」もないのがほんとうの仏教の教えです」・・・ネットより
僧侶たる者は、女性でなければ感じ取れない母性愛の中にある汚点と罪悪感の辛さに、
必要以上に付け込んではいけない。
僧侶の読経よりも、小さなお地蔵さんの置物(可愛い)を買われて、そっと手を合わせることを
おすすめします。
*戒名も要らない、墓も要らない、年回忌や死後の行事に必要性を感じることなく、
亡くなられた方と本当に親しかった方たちだけの「家族葬が増えつつあります。
それは、今まで民衆と寺院の結びつきは寺院や仏教が信仰対象として民衆の強い支持を
えていたからではなく、永年にわたる先祖代々の墓地の存在とその供養の習慣、
また祈祷・祈願により慢性的に引き継がれただけではないでしょうか。
そして庶民の多くは習慣として葬式=坊さん、坊さん=葬式として「お布施」を読経料として
差し出しているのではないでしょうか。
では無く、死後のかかわりかたを家族と話しあい、人生最後の送り送られる儀式を
意義あるものにしようという考えが定着しつつあります。
この姿こそ葬儀の原点であり、これからの葬儀の主流になるでしょう。
わたしたちが目にする花が咲くのは、あなたがまいた種、また鳥や昆虫、風が運んできた種が
因(いん)となり、適度な日当たりや、水分を得て成長するという縁(えん=条件)により
咲き誇り、わたしたちを楽しませてくれ、鳥や昆虫たちに蜜を与えるというように、
この世の一切は他のあるものに縁って存在できる・・・「生かされているのです」
また、わたしたちも父母の愛を縁としてこの世に生を受け、友達、恋人、お得意さま、お客さま、
漁師、米や野菜を作る人など多くの人との何かの縁(ご縁=おかげ)をいただいた結果として
日々生かされていることは言うまでもありません。
食卓に並んだおかずやご飯は、漁師さんが時には命がけで、また酪農家,畜産家、
お百姓さんたちが愛情をもって、天候を気遣い、育て上げてくれた食材です。
私たちはそのお蔭で「生かされている」のです。
「おかげさまで生かされている」ではなく、「生かしてやっている」と思ってしまうと他人と
自分を比較する思いが強まり、物や名声などを求め続け、人の生き方、心までもを金銭で
解決できると思い込んでしまう。
そうするとそれでしか他の人との優劣を量れなくなり、自分の思いを圧しつけ、
思い通りにならないと憎しみや嫉妬がむらむらと心に湧き出てきて自己中心の囚人と成り、
他の人が自分より秀でていることを許せない「地獄」をさまようことになるのです。
そうではなく、多くの人に「生かされている」。との感謝を心がけ、
いい意味での「他人は他人、私は私」という感覚と適度な欲をもち、マイペースで過ごせたなら、
「この世での極楽」を謳歌できるのではないでしょうか。
「おかげさまで生かされている」と思えば、思い上がるということなく暮らすことができ、
「いい人」を演じる必要もなく過ごせるのです・・・「人ありて、我あり」。
人さまがいて、私が存在するのです・・・
「因果応報」・・・原因をもたぬ結果はありません。また、結果を生まない原因はありません。
今日は昨日の行いの結果であり、今日の行いの結果が明日への繋がりとなるのです。
私の母の口癖は「おかげ、おかげの げ で暮らせ」でした。
あんなにしてやったのに
「のに」がつくとぐちが出る・・・相田みつを
次回はメモ書きBです。
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