メモ書き・ B

                     青文字は私の文です
   *「古(いにしえ)の人は学んで謀らずと、今の人は書を読んで、ただ名と財とにす」

             「人間の心をなくした悪人が一番こわい」

         「人の幸福のモノサシと自分のモノサシは、ちょっと違う。
               自分の人生は自分で楽しんでみよう。
         人は人、自分は自分である自分の幸せ感をしっかり考えてみよう」

             「恥を知るは大なり、恥ずることを恥ずれば恥なし」

        「義理欠く・恥欠く・事欠く。の「三欠く」を忘れすぎていないだろうか?」

            ひとつの言葉でけんかして、ひとつの言葉でなかなおり。
            ひとつの言葉でおじぎして、ひとつの言葉で泣かされた。
            ひとつの言葉でそれぞれに、ひとつの心をもっている。

  「円い卵も切りようで、同じ言葉も使いよう。それは羽毛よりも軽く、石よりも重くなる。
     そこのケジメに詩はほころび、そこのケジメに詩は生きる」・・詩人・堀内大学

         「二人で楽しめば二倍楽しく、二人で悲しめば半分の悲しみ」

           「病いは人間に、わが人生に対する反省をせまるもの」

     「みほとけさまはとてもやさしい。目もやさしい。ともなり兄ちゃんにみえた。
      ちかくにいってみると「あやか、がんばれよ」と言っているみたいだった。
      なみだがでてるみたいだった」
・・・兄を亡くした小学生の女の子の言葉。

       「重いものなぁに、海の砂と悲しみ。短いものなぁに、昨日と明日。
          モロイものなぁに、花と若さ。深いものなぁに、海と真理」

         「忘れることは素敵なこと。前へ、次へと行けるから」

         「商いとは、人をあきさせない会話によって商いとなる」

     「人はなぜ苦しむのか。それは事実と観念のギャップにより生まれるのです。
     私がこのような顔や健康や病気や能力であるのは、私のご都合以前の事実です。
     しかし、人は自分の欲望や恐怖心により都合のよい観念を形成し、持ってしまう。
   その観念と事実のギャップが苦であり、事実を受け入れられない事態を苦悩というのです。
       自分の都合をすて、都合以上の事実にお任せしうるとき、人ははじめて束縛から
  解き放される。そのときに、人は自己をこえたものを見ることができる。
                  それを「仏に会うという」

  ・・・私たちの生き方・・・
  私たちのこの肉体をもっての生命は、ほんの一瞬の時間でしかありません。
  今を生きる時を修行の場とするか、牢獄とするかは私たち自身の考えの中に潜んでいる。
  人は生まれると同時に、夕暮れの闇に身を置くのか、朝方の輝きに身を置くのか?
  それを選ぶことはできない。
  どのような親をもち、どのような環境のもと(縁)に生まれるかを選ぶことはできないのです。
  選ぶことが出来ないがゆえに、夕暮れの闇に身を置きつづけるのか、
  朝方の輝きを切り開き保ち続けることが出きるのか、
  もし、逆境の環境に生まれたなら、そのまま身を染めてしまうのかそれに打ち勝つ決意を
  もつのかそれは私たち自身でしか決められません。


 ブッダの教え(仏教)は、いわゆる運命論ではありません。
  このような運命があったのだからこのように成った。とは説きません。
  運命論は運命を決める絶対者を必要とする。
  例えていうなら、仏がそのことを取り決めたならば私たちは、その取り決めに従って
  生きなければ仕方ないのです。そうでしょうか、そうではありません。
  私たちの生き方は、仏でさえ支配できないものです。
  仏ですらどうすることのできないもの・・・それは私たちが作り出す「業=カルマ」です。
  私たちは、さまざまな業を背負って生き、業の赴くままに一生を終えるというのは
  一見、運命論に見まちがえますが、そうではありません。

  この業を貫いているのは「因果」の道理である。
  原因があって結果があるというその道程の中に「縁」という働き(因縁)があり、
  ブッダは人生苦を「因果応報」と説く。

  現在を人として正しくがんばって生きれば、未来は楽が報われる。
  現在を人としての道から外れた生き方をすれば、未来は自ずとして苦を招く。
  善因楽果・悪因苦果なのです。


「がんばれ」という言葉はつらいものです。私たちにはがんばれないときがあるもの。
 どのようにがんばればいいのか、それさえもわからないときがある。
 そのとき、私たちは他人に慰められると、それだけでうれしくなる。
 そして、そこに座り込んでしまう。

  しかし、ブッダは
 「それは本当の慰めではない。本当の慰めは、私をそこから立ち上がらせる 力を与えるもの。
 それは現実を直視し、受容し、現在のこの身の事実として逃げることなく生きることである。
 慰めと同情はちがう。人間の自立をうながすことが本当の慰めである」と説かれる。

 私たちは運の良いときは神仏に頼むことはありません。
 しかし、このような平穏なときこそ、反省して感謝の気持ちを起こさなくてはいけません。
 善因の果報を信じ、より一層の善の種を蒔く心構えを保つことです。
 喜怒哀楽の人生をあわてることなく、悔いることなく、しっかりとした自身を確立し、
 良く生き・良く活かされる生き方を心がけましょう。


 「百円玉一つ ぽんと投げて手を合わす お願い事の多いこと」・・・相田みつお

 *年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず
 (ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず)


 *仮に来て 無常の世を知れと教えて還る児は 知識かな〜和泉式部
  一人児を亡くし、一時半狂乱のようになった紫式部が、仏法の説く無常の世を知って、
  読んだ詠です。仏教は無常・無我を説くがゆえに、覚めた教えであり、冷たい教えである。
  と思います。
  でも、仏教徒であればその教えを享受しなくてはいけません。

  人をいたわる。は、すなわち自身をいたわる。私たちは一人では生きていけません。
  生きている限り、人さまの中(おかげ)に生かされている。人ありて、我あり・・・です。


順現報受
  私たちがこの世で作した行為は、この世で受ける。
  だから、できる限り悪い行為は作らないように心がけましょう。

                次回は手もと供養・観音経です。