大乗の教え
およそ2500年前インドの部族のひとつである釈迦族の王子であった、
ガウタマ=シッダールタ(ブッダ、釈迦)が創始した仏教は、ブッダの滅後ただちに
マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)で500人の弟子たちが集まって
お釈迦さまの教えを聖典編集として「口伝」で残そうとする集会が開かれました。
これを第一結集といいます。
*古代インドにおいては聖典の伝承はもっぱら記憶暗唱にたよって「口伝」で
残していたが紀元前1世紀ごろには文字で綴られた「阿含経」と呼ばれる経典が
成立しました。
集会はそのあと幾度か開かれ主張の違いからさまざまな部派仏教に分かれた。
その中で長老たちが守っていた上座部仏教と大衆部といわれる一般僧侶に多い革新派
との間で、主張論争が繰り返されて貴族的な学問仏教となって民衆の信仰から離れて
いき、紀元前後にインドの北西部で新しい仏教の信仰のあり方を求められる
運動が興った。
それは、それまでの仏教が出家による自己救済を主眼とするがために、人々を救済
することの出来ない小さな教え「小乗仏教」だと非難し、このままでは民衆の信仰から
離れてしまうと声を上げ、この危機を回避するためには、広く大衆(衆生)を
大きな乗り物に乗せて、自らの救済だけではなく共に救済しなくてはいけないと
主張した。そこでは出家せずに在家のままで信仰することも認められ、
それを「大乗仏教」と称した。
この思想の違いはすでに第2回結集の時に始まっていたとされる。
小乗・大乗の「乗」とは乗り物のことで、涅槃(悟りの境地、ニルヴァーナ)に至る
手段としての方法を言う。
小乗仏教という名は大乗からの蔑称であり、出家信徒たちは上座部仏教と称した。
その後、大乗仏教は紀元後1世紀に成立したクシャーナ朝の保護を受けて盛んになり、
それまでの偶像崇拝の否定は弱まり、ガンダーラ地方などで、釈迦の偉大さを実体化
して釈迦像としたり、仏陀(釈迦)の境地に達したとされる如来像や、仏陀の境地に
達してからも、何度でも一切の命のあるものを救おうと、この世に生れ落ちて
一切衆生を救済する理想的修行者を菩薩として創造し、それを菩薩像と表現して
信仰、崇拝の対象とするさまざまな仏像彫刻が生まれた。
菩薩とは、悟り(菩提)を求める人(薩埵・さった)の略称。
仏像と共に中国や朝鮮、そして日本へと伝えられていった大乗仏教は北伝仏教とも
言われ、経典は古代インドの文章で用いる価値の高いことばのサンスクリット語で
書かれている。
一方のスリランカ・ミャンマー(ビルマ)・タイ・カンボジアなどに伝わった
上座部仏教は南伝仏教とも言われ、経典は俗語であるパーリ語が用いられている。
大乗仏教の理論を大成させたのは2世紀中ごろ、デカン高原のクリシュナ川流域で
活動したナーガールジュナ(竜樹)である。
以上、大乗仏教についてネット掲載文を参考に綴りましたが、
詳しいことは皆さまで調べて下さい。
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日本仏教は大乗仏教です。
大乗仏教は、なにものにも囚われない心〈無執着〉で、広く人々を救済しようとする
広大な慈悲の門(普門)を開け、生きとし生ける衆生全てを苦から救う利他行を
目指します。
利他行を実践する人を「菩薩」といい、苦しみを除いて、安楽を与える
「慈悲=抜苦与楽(ばっくよらく)」にもとづく実践を「菩薩行」といいます。
しかし、日本の寺・僧侶は、この素晴らしい大乗の教えである利他行を実践している
でしょか?
元来の仏教には説かれていない、葬式・法要・観光・祈祷も利他行と言えるでしょう。
しかし金銭が絡むと、果たしてそうといえるでしょうか?
寺・僧侶は檀家だけでなく衆生全てに目を向けているだろうか?
檀家には金銭に囚われることなく接しているだろうか?
己の僧階や檀家数を自慢してはいないだろうか?
檀家様のおかげで自分たちの生活があるということを忘れてはいないか?
他人の子よりも我が子大事との思いはないだろうか?
家族をもてば心を揺り動かされる。無執着でおられるだろうか?
お釈迦さまは何故、僧侶の妻帯を戒められたかを今一度、僧侶自身が問いかけ
なくてはいけないのでは?・・・庶民から指摘される前に。
目の前にいる悩める人に手を差しのべているだろうか?
数々の犯罪は心の病みから引き起こされる。
これを防ぐ手立て(説法)を実践しているだろうか?
寺はこれらの事に応え、答える所であり、僧侶は大乗の教えを説く存在者のはずです。
葬式・法要・観光・祈祷以外は寺に籠り、知ったかぶりの仏教用語をならび立て、
ただ喋るだけでは日本における大乗の教えは単なる戯論(けろん)でしかありません。
また、曹洞宗に於ける只管打坐、真言宗に於ける四度加行、比叡山・大峰山に於ける
千日回峰の達成だけを語るだけでは単なる自己満足に過ぎないと思いますが?
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「日本仏教はいわゆる『大乗仏教』です。小乗仏教が丸木一本でただ一人が川を渡る
とすれば大乗仏教は百人乗りの筏という意味です。大乗仏教は釈迦の仏教とは
断絶したものです。ひょっとすると全く違ったものかも知れません」・・・司馬遼太郎
大乗の利他行という素晴らしい教えを活かせるか、
それとも絵に描いた餅にしていまうのかは、寺・僧侶の実践ひとつにかかっている。
その結果しだいで、ブッダの説かれた崇高な教えとは
全く違ったものものになってしまうのでは?
*いつからか週末の新聞折込チラシの中に、必ずと言っていいほど入っているのは
民間・寺院の葬儀場・墓・仏壇の案内である。
民間業者は良いとしても寺院が同調するのは如何なものか?
葬儀と死後の行事と宗祖の法要しか出来ない、しないのならの
「今のお寺に仏教はない」と揶揄されてもいたしかたないだろう。
「近ごろ、坊主の姿をあまり見なくなった。葬儀・法事が質素簡略化され、
坊主の出番が少なくなってきたからかな?」・・・友人のことば。
寺・僧侶が、お釈迦さまの教えを説き、大乗の教えを実践する姿を庶民が
目にしたならば、自然と寺に足を運び、僧侶の経験からの法話に耳を傾けるだろう。
また、そうでなければ大乗の教えは活かされることはなく、寺・僧侶は庶民から
忘れられていくだろう。
「神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下の罰おそるべし。
そのゆえは神の罰は祈りてもまぬるべし。主君の罰は詫言して謝すべし。
ただ臣下百姓にうとまれば必ず国を失う。
ゆえに祈りても詫言してもその罰はまぬかれがたし。
ゆえに神の罰、主君の罰より臣下万民の罰はもっとも恐れるべし」・・・黒田如水
庶民のほんのりとした言葉は僧侶の法話よりも温かくこころに沁みる。
寺・僧侶がなくても庶民は困らない。庶民を上から目線でみるとかならず罰をうける。
そうならないように寺とは本来、何を成すべき処か。
僧侶とは本来、何を話すべき者かを知っていただきたい。
庶民の日常における暮らしに於いてほとんど意味のない、知ったかぶりの教義を
垂れる必要はない・・・役にたたない。また、知ろうと思えばネットで検索できる。
「固定資産税の優遇を外されると日本の寺のほとんどがつぶれる」と言った住職が
いたが、すべての事象はことごとく移ろいでいる「諸行無常」である。
言い換えれば淘汰される。寺族の生活がなくなっても、法=真理はなくならない。
お釈迦さまの説かれた「法=真理」はもちろんのこと、各宗派開祖が命を
賭して説き広めた宗論は学問ではない。
しかし、いつからか学問と捉えて言葉遊びに耽り、人々の中に入り救い上げるという
大乗の教え=利他行を実践することを捨て去ってしまった日本仏教。
宗祖の誰が「寺宝・墓の守りに専念せよ」と言い遺されたか。
また、僧侶の成すべきことは
「家族の生計のための金銭授受による葬儀と死後の行事に専念せよ」と・・・
では、無い。
僧侶自身が経験したことのない死後の世界を都合の良い「方便」として理屈漬けし、
金銭授受でもって、まことしやかに話すことが宗祖の目指す
大乗の教えであったのか?
大乗仏教は己のことはさて置き、損か得かは捨て去り「衆生の苦を抜き楽を与える」
ことを実践することではないだろうか?
キリスト教で言うなら「迷える子羊」を救う。ではないだろうか?
損か得か 人間のものさし ウソかまことか 仏さまのものさし・・・相田みつを
日本は大乗仏教?違うよ、ただの葬儀主体の宗派経。
庶民も葬式と法事のときだけの、にわか信徒。・・・ネットより
葬式に異議を唱える本や、批判されたいる方たちは矛盾だらけの仏式葬儀を
批判しているのであって、葬式そのものを否定していない。
大乗仏教の目指すところは
「己のことはさておき、すべての人々が幸せになること」です。
悟りだの、戒律だの、戒名だのは、仏教の祖・お釈迦さまが亡くなられてからの
後々の人たちが、屁理屈をこねて考え出したものにすぎません。
殺伐とした事件があとを絶ちません。
その事件の要因の多くは心の病に帰すると言っていいでしょう。
心の病を癒すところが寺であり、勇気づけ、間違った道に迷い込まないように
心からの言葉がけをして、心からの言葉で諭すのが僧侶の務めです。
その言葉を人たちは求め、その言葉に癒されて決して人の道から外れる行いは
しないでしょう。
新約聖書(ヨハネの福音書第一章第一節)に
「初めに言ありき、言は神とともにあり、言は神なりき」とあります。
言葉は、神であり、生命の光であり、人類の光なのです。
次回は新年・令和4年のご挨拶です
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