そのときの人と物事と言葉との出逢い・3
その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある
人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの それは人と人との出逢い そのときの出逢い・・相田みつを
*人間は凡そ命あるものの犠牲のお陰で成り立っている
「某(それがし) 親鸞 閉眼せば(私が死んだら)、鴨川に投げ入れて魚に与うべし」・・・親鸞
親鸞は臨終すれば「弥陀の本願により、直ちに極楽に往きて生まれ変われるのだ」と信じる
決心を果たした(信心決定)。
極楽往生した身にとって肉体はもはや脱け殻同然である。
だから、「人間は命あるものの犠牲のお陰で成り立っていることに感謝して、
脱け殻同然の肉体を魚に与えなさい」と言い残した。
親鸞は脱け殻同然の肉体の葬儀や死後の行事を忌み嫌っていた。
と言うより、そのようなことは弥陀の本願に敵(そぐ)わないと教えている。
と思う・・・間違いかな?
「生ぜしもひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり。
そいはつべき人なき故なり」・・・一遍
一遍は弟子たちに、自分の死後の処置について「仰々しい葬儀をしないこと。
死骸は野に捨て獣に食べさせること。
信者から墓所の申し出があつたらまかせて手をださないこと」を遺言としていた。
鎌倉時代の祖師たちは、親鸞や法然にしてもおしなべて同様の遺言をしている。
鎌倉時代の祖師たちは、既存の仏教に異を唱え、実践した革命家。言い換えれば
一自由思想家(一沙門)だったと思う。
だから、私は権力者から一歩引いた鎌倉時代の祖師たちが好きだ。
*「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」・・・親鸞「愚禿鈔(ぐとくしょう)」
「弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)
受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。難(なん)の中(なか)の難(なん)、
これに過(す)ぎたるはなし」・・・親鸞/「信心獲得(しんじんぎゃくとく)
人の外見はある程度の目安にはなる。しかし、それだけでその人の価値を即断すると、
かえって本人の品性の貧しさを相手にさらけ出すようなものです・・・私にとって痛い言葉です。
*宗教が人の心の救いと安らぎに作用するのに止まっている限りは問題ないが、
権力や政治に結び付くとろくなことはない。
宗教の幹部たちが経済力や信徒の数を使って一定地域に聖城のようなものを
作らせること自体を禁止して宗教本来の姿にとどまらせておく事が必要である。
*自由には責任が伴う。
*要らないものは捨てること。生きているうちに。残したものが残された家族にとって負担・
負債となり得ることもある。手ぶらで生まれてきたのだから、手ぶらで帰って行こう。
ありがとうの言葉だけ残して。
*自分の死が迫っていることを知らなければ、実は人間は「その日」を生きることなどできない。
唯一誰にも訪れる「死」であるのに、日本人は正面から対峙せず避けてきた・・・曽野綾子
無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり・・・徒然草 人間は、死が、すぐに身に迫ってくるということを心にしっかりと言い聞かせて、片時も忘れてはならぬ。 僧侶は「死」に対峙する心構えを説かず、見知らぬ死後の世界を説く。
*思い通りにいかないから人生は面白い。病気も人生。
*上り坂、勢いに乗っているときはいい。窮地に立ったとき、人間の本当の価値が決まる。
大乗仏教は単なる理想論?
天台宗の千日回峰、真言宗の四度加行などの苦行を満行したあと、それによって開悟した彼らは
その悟りを庶民に伝えることなく山内または寺に籠り自己満足に浸っている。
この行為は「釈迦の教えは自分一人の悟りを得るという自己満足であり、衆生を救い上げ、
多くの人たちを理想世界である彼岸に導くのが釈迦本来の教えである」という理念のもとに立ち上げた
「大乗仏教」を否定したものではないだろうか。
本来の原始仏教で弟子となって出家するのは自分自身の煩悩を払い、自分自身の解脱を求めるもので
あったので、伝統的・保守的な長老たちは大乗仏教の思想を拡大解釈するものとして否定した。
それに飽き足らない改革派グループは長老たち(上座部)の考えを、人々を救済することのできない
小さな乗り物、つまり「小乗」であると非難し、自分たちの思想を「大乗」と称した。
果たして、大乗仏教の根本思想である「利他行」を惜しまず実践している僧侶は幾人ほど?
潤沢な資金を普く人々に還元しているだろうか?
寺の固定資産税免除の原資は庶民の税であることを 坊主たちが分かっているのなら、
利他行実践に於いて納税すべきでは?・・・ネットより
利他とは 人のために生きること・・・間違いかな?
*アクビも一緒に、オナラも一緒に、泣くのも一緒に、笑うのも一緒に・・・歳月を伴にした善き夫婦哉。
*「いとしも、物のかたがた得たる人は難し。ただわが心のたてつる筋をとらへて、
人をばなきになすなめり」・・・紫式部
偉そうなことを言っている人は往々にして、自分の得意な分野のことを鼻にかけ他人を軽蔑する。
それに引き換えあらゆる分野に精通する知識がある人は、世の中には滅多にいるものではない。
*「私が世の中で一番軽蔑する人は、尤もらしい顔で葬儀や法事を正当化するお坊さん。
先祖供養を言い出したら、尊敬する気になれません。ただ姿だけがお坊さんだけですね」
・・・お話会でのご婦人の言葉
「中々世智弁聰(せちべんそう)なるよりも、鈍根(どんこん)なるやうにて、切(せつ)に
志(こころざし)を発する人、速やかに悟(さとり)を得るなり」・・・道元
肩書や知名度はその人物をはかる一応の目安にはなるにしても、
そうした先入観が裏切られることもあることを承知しておかねばなりません。
葬儀を否定する人たちは葬儀そのものを否定してはいません。
先祖供養を持ち出す仏式葬儀を否定しているのです。
僧侶から「先祖供養をしていない家庭は不幸になる」と言われた方がおられたが、
欠かさず毎月の法要をしている家族の誰かが犯罪者、若しくはその被害者となられたときに、
その坊主は何と答えるのか?「信心が足りない」と答えるの?
「人の心本(もと)より善悪なし。善悪は縁に随いて起こる。
善縁にあへば心よくなり、悪縁に近づけば心わるくなるなり。
我が心本より悪しと思ふことなかれ。只善縁に随ふべきなり」・・・道元(片山一義/ダンマパダ)
「心のとどまり、居つく所あるうちは、進む志はなし。
よしあしと思う心を打ち捨てて何事もなき身となりてみよ」
・・・上泉(こういずみ)伊勢守神陰流開祖。1573年没(志村 武・釈迦の遺言)
「毎日毎日の足跡が おのずから人生の答えを出す きれいな足跡には きれいな水がたまる」
・・・相田みつを
人としての道を外さなければ、少し遅れても、少し寄り道をしても、人生景色を楽しんで、
納得できる自分の歩みが出来ればいい。
次回は その4 です
続きます
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