そのときの人と物事と言葉との出逢い10

           その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある
            人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの 

  
                    前ページからの続きです。
◎「忘却」とは神から人間に与えられた恵み、神の賜物(たまもの)「恩寵(おんちょう)である。
  仏教も執着せずに「忘れなさい」を説く

◎死を迎えるにあたって、振り返り、人からしてもらったことを思い出し感謝する。
 悲しみを自然のまま引き出してあげる配慮が私たちの役目です。
 「励ますこと」はいいことだと思っている。が決してそうではない場合が多々ある。

◎人は生きてきたように死んでいく。
 不平不満を言いながら生きてきた人は不平不満をいいながら死んでいく。
 「よくわかりますよ」という言葉は非常に危険なのである。


◎60歳以降は「べき人間」から「たい人間」になる。
 ゆとりとは、何々すべきから解放され、何とかなるぞ というように思える気楽さに気持ちを変えて 
 ユーモアを持てる心もちに落ち着いた心境。
 そうすれば自然と神さま、仏さまを素直に信じることが出来て死後の世界へつながっていく。

 
◎人間は弱くもあり 強くもある。
 意見ではなく気持ちを表現するとよりよい込みコミュ二ケーションがとれる。
 自分に対する誰かの本物の愛があると思う。
 そのうち自分自身から そろそろ何かしなくちゃと思い そして人の役に立つ喜びを
 みつけたらしめたもの。


◎残された能力をめいっぱい使って生きている姿を世間体が悪いといってやめさせるのはどんなものか?
 最後の最後まで誰の世話にもならず自分のもてる力を使い切って命を生き切った人の死が
 なぜ忌むべきものか。頑張りましたね、立派でしたよと讃えたい。
 不安は依存心から生まれる。
 依存心を捨て、残っている能力とお金を使い切って死のうという覚悟が大往生の秘訣ではないか。


◎仏陀と成られたお釈迦さまの教えが「仏教」である。その教えを享受するのが仏教徒である。
 仏教徒の師範であるべき者が僧侶である。
 その僧侶たる者が経典に説かれていない死後の行事で家族を養うことがあっていいのだろうか。
 「時の流れ」と言ってしまえば、それは箍の外れたものでしかない。
 しかし、いつからか箍の外れた「教え」を死後の教えとして正当化してしまったのだろう。

◎自分も死ぬ存在・無常の風は自分にも吹いている。

◎死んだら終わりって考えるといろんなことがんばれるやん。
 死の恐怖からも逃れるというメリットもあるやん。
 ということは、むしろ死は救済やろ。


◎天国も極楽もすべてがイメージによる想定やろ。
 死後の世界は無いとは思いつつも御先祖様のお墓参りはやってしまう謎。
 お墓参りは、仏教を離れた「感謝参り」と思えば坊主は要らん。


◎諸行無常だな、全ては壊れていく恐れず受け入れよう。むしろ、無こそが最上の安らぎ楽しみだ
 そもそもの話として、人間の魂(性格、性質、人格、それらの概念としての魂)というのは、
 脳の錯覚でしかないし、以前と今の比較で成り立っていくものだから、認知症などで以前の記憶や
 今の記憶が消えればそれこそ魂が文字通り消えていく。
 とどのつまり魂が次の世界にいくなんてことがないわけだ。 
般若心経に説かれていますね。「私たちの身体は色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、
 行(意志などの心作用)、識(心)の五つの要素(五蘊)から成り立つ集合体であり、
 これを離れての霊魂・先祖霊の存在はありえない」と

 
◎証明できないなら、輪廻転生をさえずる宗教バカと何も変わらん妄想だけどな
 ある日、心臓が止まると10兆ある細胞は悉く死を迎える意識も記憶も脳機能に過ぎないので
 来世はない。死後にまた別の世界があるのを求めるのは人間の弱さだろうな。
 というか死んでからも何かあったら嫌だわ。
    
      
 *以上で 「そのときの人と物事と言葉との出逢い」 は終わります。

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8月11日、姉の娘とその長男そして私の友人とで大阪フェスティバルホールでの
小林研一郎指揮・大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会に行ってきました。
曲目は、シューベルト/交響曲 第7番「未完成」・ベートーヴェン/交響曲 第5番 「運命」・
ドヴォルザーク/交響曲 第9番 「新世界より」だった。3曲ともポピュラーな曲なので満席でした。
「新世界より」の第2楽章は小中学校の下校時に流れる「家路」のメロディとしてあまりにも有名です。
小学生のころ友達と遊びほうけて夕方になると誰となく家に
帰りかけると、長屋の路地に玉子焼きや魚を焼く匂いがして走って帰ったのが懐かしいです。

12日は昨年58歳で亡くなった姪の初盆に参りました。
車での行き帰りをありがたくお受けしました。
読経のあと皆さんと食事の前に「お盆は亡くなられた方が帰ってくるとされていますが、
本日は〇〇ちゃんが皆さんとのご縁に感謝の言葉を伝えに来られていると想ってください」
とお話ししました。

13日は私の両親と昨年亡くなった義兄のお盆です。
3人姉妹と連れ合い2人そして妻は、読経のあとは食事とやかましいくらいのお喋りになるだろう。
まぁ、その姿が供養と言えば供養かな?

*友人の奥さんの問いかけ
「お坊さんって、お葬式で亡くなった人が安らかにお眠りしていただく儀式をされたのでしょう?
 なのに亡くなってからの見も知らないあの世のことを自慢げに喋るの?だからお坊さんは嫌い」
 続けて「夫婦で神社仏閣巡りは好きです。主人は建造物・仏像は好みますけど、私と一緒で
 お坊さんに興味はありません」
そして、奥さんはサラッと言われました「私は嘘をつかない。嘘をつくと疲れるから」と・・・

荻生徂徠、曰く
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、
自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、
世間の費(つい)え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、
錢取りのため執行ふたたび多し』


           次回は 沈黙 です