沈 黙
*「ブッダの沈黙」・・・
「質問そのものが不可解である」「語られる対象そのものが知識(=言語)の域を越えている」
「言語そのものの不完成性」
ブッダは答えを知っていたけれども、その質問は宗教の中心問題である救済に関しないので
回答をあたえなかった。
それらを踏まえてブッダは弟子たちに戒めた
「沙門は王門に近寄らず(治について語ることなかれ)」
「死を含めて自分が経験出来なかったことを語ることなかれ」

ブッダが無記の立場をとったのは「苦の治療とは何の関係もないから」だ。
ブッダは「宇宙に始まりがあろうとなかろうと、現実に生があり死があり、苦しみ、嘆き、
悶えがあり・・・ わたしは現世においてその制圧を説く。今における処置のみを考えよ」
と大意を述べる→
「毒矢の喩え」
ブッダと他の異端たちを区別し仏教を興隆に導いたのは、徹底した不可知論に基づき“
ただ現世あるのみ”を旗印としたブッダのプラグマティズム
「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」だった・・・
以上ネット参考

仏教の原点は「経験したことがないことは答えてはいけない」
形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。
よって、見知らぬ死後のことなどは論ずるに値しない=「無記」である。
そのようなことを憂いずに「今 此処 我」を切に生きよ」だと思いますが?

*遠藤周作「沈黙」・・・
30年ほど前にこの作品を読んだときは隠れキリシタンの悲痛さに同情した。
が、当時のイエズス会は他国を侵略するための前段階としてキリスト教の布教を行うために
アジアへ向かい、インドのゴアを拠点とした。
当時、インドのゴアには迫害を逃れてきた改宗ユダヤ人が平穏に暮らしていました。   
しかしイエスズ会がゴアにやってきた事で一変した。
ゴアにいた改宗ユダヤ人を異端審問し、次々と火あぶりにしていった。


日本でもイエズス会は寺社を破壊するほど他宗教に排他的であったこと。
日本人を奴隷として買い、中国などに輸出していたこと。
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、 
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」
火薬1樽で50人の娘が売られていたそうです。
要するに宣教師を通じて奴隷貿易を行っていた。
最終的に50万に及ぶ女性が中国、ヨーロッパ他に性奴隷として売られていた。
である。

これに気づいた豊臣秀吉はイエズス会・ガスパル・コエリョに対し、次なる四ケ条の詰問を
 突きつけていた。
『何ゆえに日本人にキリスト教を強いるのか。何ゆえに寺社を破壊し、仏僧を迫害してこれを
融和しょうとしないのか。何ゆえに、人に仕えて有益なる牛馬を殺して食うか。
何ゆえに多数の日本人を買い、奴隷にして連行するのか。
日本では神と仏教が融和できたのになぜキリスト教はできないのか』
このように言って秀吉は、寺社破壊をやめ、仏教界と融和することを持ちかけたが、コエリョは
キリスト教と仏教とは融和できないことを強調し、交渉のテーブルにつくことを拒否した。
以後、秀吉は強烈な不信と反感とともに政策の思惑のずれからキリシタンを禁教とし、
慶長元年十二月十九日(1597)秀吉の命令により26人の男子カトリック信徒が長崎で
処刑された。この出来事を「二十六聖人の殉教」といい、これが日本に於いて、
最高権力者の指令によりキリシタン処刑が行われた初めての出来事とされている


以上は現在綴っている作品から抜粋しました。B6番・200頁まで綴りましたが
新たな史実なども綴っていこうと思っているので最終的には、もう30頁ほど追加になるかも。

8月19日、梅田の紀伊国屋書店に注文していた「沈黙/サイレンス」DVDを取りに行ってきた。
視聴後の感想は主役の宣教師(パードレ)が「神はなぜ沈黙するのか」と嘆き、
捕らわれた村人(信者)が宣教師に向かい「この平和な村にあなたが来なかったらこのような
辛い思いをしなくてよかった」と訴えた表情と、貧しい時代の信者にとり、信仰は生きる希望で
あり、命であったはず、それを無理やり剥ぎ取られた人たちがどれほど無念であった
であろう。そして、宗教とは排他的であり、諸刃の刃でもあるということを知らされたことです。

               次回は 本来の仏教・本来の僧侶