本来の仏教・本来の僧侶とは
平成6年8月13日(1994年)盆休みに入り何もすることがなかったので昼からブラっと
梅田かっぱ横丁のラーメン店<古潭>に寄ってから甲子園へ。
3時頃から4時ころに着いて廻りを見回すと何か応援団らしき集まり。
然も父兄のようなふりをしてその集団と一緒に自然と入っていった。
席に座って初めて、仙台育英高校の応援席だと知った。のんきなものである。
試合が始まると応援団の学生と父兄の熱気にノリノリになり、
4対4で迎えた9回裏ノーアウト満塁からサヨナラゲームの興奮は忘れられない。
それからは春・夏を通して仙台育英が出場できない年は地元大阪代表を応援しているが
仙台育英出場のときはもちろん応援するようになった。
今年は夏の大会2連覇を逃し残念だった。

高校野球が始まると今だに舟木一夫の「涙の敗戦投手」を口ずさむ。いい歌詞ですよ。

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本来の仏教ってどのようなものですか?と問われ次のように答えました。

「本来の仏教」という定義付けは出来ないし、何をもって「本来の仏教」というカテゴリーに
入るのかは断定できません。
私が言うところの「本来の仏教」とは[諸行無常」という絶対真理を理解することと、
この世のすべては「縁起によってなりたっている」という絶対真理を見通す力を自分自身で
形成しなさい。という教えです。

葬儀や死後の行事に重きを置かないのが私の言うところの「本来の仏教」です。

続けて、あなたはいわゆる葬式仏教に否定的なのは?の問いかけに答えました。

私が仏式葬儀に疑問を投げかけるのは本来の仏教は「あの世はあるのか」や
「霊魂は存在するのか」などといった形而上的問題については「無記」として事実上否定している。
だけど殆どの僧侶が法事や葬式といった本来の仏教とは全く無関係の俗事に携わることになんの
疑問も持たず、葬儀や法事を行い墓を管理することで生計を立てているということが
当たり前になってしまっていることを憂うからです。
なぜ憂うか?室町時代までは貧しい生活に追われていた庶民の死に対して聖と呼ばれるに
相応しい僧侶が手を合わせ亡き人を見送ったであろう。
しかし、島原天草の乱を機に国民統制手段として必ずどこかの寺に所属させる檀家制度が強化され、
僧侶による葬儀を行わない者は即キリシタンと見なされ、厳しい刑罰を科せられた。
このことによって仏式葬儀が国民に浸透していった。
以後、庶民の生活の中に深く根付いてしまっているいわゆる"葬式仏教"を一概に否定しません。
葬儀を職としている僧侶による仏式葬儀を必要としない庶民が増えていくことに期待しています。

ある女性から”本来のお坊さんの姿勢とは”を問われました。

それに応えて「ダンマパダ」という経典があってネットでも検索できます。
その中の「二十五章・修行僧」と「二十六章・バラモン」を読んでいただき
ご自身で納得して下さい」と答えました。
後日「すばらしい経典を紹介していただきありがとうございました。お釈迦さまの教えである
”仏教”に出会えた反面、僧侶の資質を知る参考になります」との連絡がありました。


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*新聞・ネットで取り上げられた「火葬待ちの現状」に一言・・・
 
火葬待ちが葬儀のあと10日前後から2〜3週間近くもあるとのこと。
遺体安置に1日2万円ほどが相場らしい。
もし、2週間かかったとすれば遺族は28万円の負担となる。
このことを解決するには火葬場を増設するのが一番の策ではないだろうか?
しかし、新たな火葬場計画が公表されると必ずと言っていい反対運動が起こる。
それを説得する役目を担うのは寺・僧侶の筈である。何故なら亡き人を仏門に入れるために
布施と称する金銭を受け取り、戒名を与え、経を唱え、仏門へ導く役目(導師)を担ったのだから。
よって、僧侶は儀式で亡くなられた人の遺骸は清らかで尊厳せらるものとして火葬されるのであって
忌み嫌われることがあってはならないことを反対する人たちに説かなければならない。
それが出来ないのなら本山を含めての広い敷地をもつ寺院が進んで税の優遇を受けずに、
火葬場を併設する意思を示すべきである。
でなければ仏式葬儀って何?亡骸を忌み嫌う儀式?ということです。
私の意見を無茶苦茶だと言われる方がおられても、気にしません。

今回のHPを見た友人から次の連絡がありました。
 「俺が本来の僧侶とはを尋ねられて答えるなら、僧侶とは出家者のことを指すのであって、
  葬儀執行人を目指す者ではない。この二つをわきまえてこそ僧侶を名乗れる」

 この言葉に対して「原理主義だの綺麗ごとを言っている」と言う僧侶がおれば、
 もはや、自浄能力のない箍の外れた存在者でしかないと思いますが?


*先日の女性から連絡をいただきました。
 「坂本さんはHPで<手元供養>のことを書かれていましたね。
  私も両親二人連れの写真を小さな写真立てに収め、可愛いおりんと一緒に机の上に置いて
  それ以外の仏具とやらは置いていません。お墓もありません。
  両親は共に、お墓は無くてもいい。年回忌の供養とかはしなくていいと言っていました。
  主人も同じ意見で子供・孫たちに『お父さんお母さん、そしてジイジ・バアバへの想いをもって
  くれるだけでいい。忘れてくれてもいい。仏壇などは置かなくていい。供養など要らない。

  ましてやロッカー形式の仏壇なんかに入れないでくれ』と言っています」
  
*後日、次の連絡をいただきました。
  お墓には長文ですが一休さんの
  
「死にはせぬ どこにも行かぬ 此処にいる 尋ねはするな ものは言わぬぞ」
  を刻してもらおうと思っています。亡き母は「どこかに居ても見守ってくれている」の想いで。

  
  先日、遺言書・お父さんの葬儀納骨の仕方は既に渡してある通りにすること。年回忌も不要。
  お父さんが亡くなる前にお父さんが仏壇の処分をする。
  もし急に亡くなったときの仏壇処分の仕方を3人の子供宛に書き記しました。
  仏教とのつながりはお父さん一代かぎりでいい。宗教に囚われる生き方はしないこと。

  
*数学がすきな友人との会話・・・
 彼は高校生のときからの友人で数学が好きだというのが口ぐせです。
 なぜ、好きかを問うと「答えが出るから」でした。
 大阪梅田で久々に会って食事。そのあと喫茶店で雑談のときに
 「スーパーコンピュータで円周率の最終は出せるの?今、何桁まで計算されてるの?」と問うと
 「2022年6月に100兆桁が計算されたよ。今後もさらなる記録の更新があるだろう。
 更新があるだろうとしか言えない。そしてスーパーコンピュータでも円周率の最終は出せない。
 何故なら、円周率が無限に続くことがスーパーコンピュータに組み込まれているから。
 なんならネットで検索するといいよ」と答えてくれた。
 私の頭では「あぁ、そぉう」の返事しかできなかった。
 そのあと彼が「死後の世界が有るか無いかをスーパーコンピュータが映し出したら面白いね。
 それが出来るまでは死後の世界を話すなんて意味ないね。ただの空想論だね。
 本来、仏教は死後の世界などの見知らぬこと、経験したことのないことは説いてはいけないよね。
 それを坊主が然も見てきたように言うのは詐欺だね」
と言った。彼らしい言葉である。

*先祖供養をする家庭と、しない家庭・・・
 「自宅の真向かいの40代の息子さんが自殺しました。お母さんの憔悴しきった顔を見てどのように
  声掛けをすればいいか分からず近所の人も、そっとしておきましょうとしか言いようが
  ありませんでした。葬儀も本当に数人の御家族で終わらせたようでした。
  お向かいは月参り・年回忌をかかさずご先祖供養をされていたのに・・・
  お向かいのご先祖はこのことどう思っているのでしょう。
  それとは対照的に私たち夫婦は先祖供養などしたことはありません。
  主人とは、お互いの両親の思い出話しをするぐらいで命日とやらも忘れることがあります。
  熱心に先祖供養をされていたお家が不幸になられて、していない私たち家族が平々凡々な
  暮らしができているのは何故?先祖供養って何?と思います」
と問われました。
  この問いかけに対してYouTube等で執拗に先祖供養を説いている僧侶はどう答えるだろうか。
  
「まだまだ先祖供養が足りなかった」とでも言うのだろうか?
  そのような僧侶はHPの3頁の掲載文今生きている人のためのお寺・・・を理解できないだろう。
   引導作法によって安らかな境地に入らしめた僧侶が得意げに先祖供養を口にするとは何事か。
   果たして、先祖は供養を欲しているのだろうか?私は供養など求めないし、させない。

 *亡くなられた方の赴く処は、生前に善きことをしたか否かで四十九日目に決まる。
  「死するとき、ともするものは業報(ごっぽう)のみ」
  〜亡くなるときについてくるのはその人の 成した事だけであり、他の人が(僧侶も含め)
  どうこうすることはできない〜曹洞宗開祖・道元

 
私は仏式葬儀が葬儀であると信じている方たちにはそのように接しています。
  と同時に、宗教から離れた自由な葬儀を求められる方たちにはそのように接しています。
  ただ、感謝の念で送ること以外に葬儀にこれという縛りはありません。
   ということを忘れずにお話ししています

                  
次回は 他愛ない話し