どのようにして寺・僧侶と接しているか 

数年前のデータですが、全国にコンビニはおよそ4万店あるといわれています。
また、郵便局の数はおよそ24700局といわれます。
わたしたちは都市部の街中を10分・15分も歩けばコンビニに出会い、30分も歩けば郵便局に
出会うのではないでしょうか。
では77000という数は何という施設の数でしょう、それは寺院の数です。
コンビニの2倍、郵便局の3倍もの寺院があり、従事する僧侶は30万人といわれます。
庶民はこの77000ともいわれる寺院、そして30万人の僧侶とどのように接しているでしょうか。

先ず、寺とはどのように接しているか?それは古寺・名刹を訪れての建造物や庭園の散策、
そこに安置されている国宝・文化財クラスの仏像鑑賞であり、仏像を祈りの対象・信仰の対象では
なく、美術品・芸術品としての関心だけで赴くと言ってもいいでしょう。
また、、厄除け・家内安全などの現世利益を祈願して参拝するだけで、その寺が何宗でどのような
仏教を伝えているのかはほとんど関心を示さないのでは・・・

次に、多くの人が僧侶と接するときと言えば習慣と世間体を重視した葬儀と、それに伴う死後の
行事でしょう。しかもその時だけであって、普段は全くといってもいいくらい触れ合うことはないと思います。僧侶に求めるのは単なる司祭者であって、如何ほどの信仰心があってのことでしょうか。
僧侶もまた、先祖供養や死後の仏事の大事さを喋るだけで本来の仏教とは何か?を説くことは
まず無いでしょう。矛盾だらけになるから説けないのです。
訳のわからぬ漢文の経典を棒読みし、僧侶の責務である
 「人として、有り難く頂戴した命を如何にして、より良く活かし、活かされ、良く生き、良く死ぬか」
を説き広めることは殆どありません。勿論、すべての寺・僧侶を言ってはいません。

以上を踏まえて言えるのは庶民が寺院・僧侶と接しているのは「観光仏教」・「祈祷仏教」・
「葬式仏教」として接しているだけだと言っても過言ではないでしょう。

「仏教も葬式などで和尚が念仏を唱えるだけだ。これは信教とは言わない。
日本人は現世利益以外の宗教的な徳といった概念を理解できないのだと遠藤周作が言っていた。
たいだいの日本人は便宜上、所属はしているけど帰属、帰依はしてないよな 」・・・ネット掲載文より

これは只々、坊主の怠慢によるものでしょう。

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さて、皆さんに知っていただきたいのは仏式葬儀とそれに伴う行事は本来の仏教とは殆ど無縁の
ものであり、僧侶が金銭の授受を目的として、それにかかわることを仏教の祖・お釈迦さまが
戒められたということです。況や、それにより家族の生計を図ることは論外です。
各宗派の開祖も「僧侶の勤めは司祭者であれ」とは言っていません。
ましてや、死後の行事での金銭をお布施と称して受け取るべしとは言っていません。
なぜなら「仏教徒=ブッダ・お釈迦さまの弟子」だからです。
各宗派開祖、各宗派の寺院に従事する僧侶、そしてその寺院に葬儀および死後の法事を依頼し、
あるいは予定をされている方たち、いわゆる壇信徒。
また仏教を名乗り、隠れ蓑にしての新興宗教団体教祖とその信者の全てがお釈迦さまの教え
「仏教」を享受する仏教徒です。
仏教徒であればこそ、「本来の仏教」に触れていただきたいと願います。

多くの方たちは仏教=死後の教え・行事と思われているのでは?
否、本来の仏教(ブッダ・お釈迦さまの教え)は、死後は生きている間の悪因悪果・善因善果によって
もたらせるものであり、整えた心で生を観なければ、良き死を見れません。
良き死後を願うなら「良く生き・良く死になさい」と教えています。
その生き方の道しるべが仏教です。
それを説くのが僧侶の務めです。人が死んでから行く。頼まれたから行く。ではありません。
仏教用語を並び立てた仏教論を言いたがり、かたくなに仏式葬儀に拘る原理主義者とも言える
坊主も居れば冷静に、仏教とは?僧侶の責務とは?を見通しておられる僧侶もおられます。
執拗に仏式葬儀に拘る坊主はネット社会の現在、良識ある方たちに笑われるだけのことです。
悩みを抱えている人こそお寺に行くべきである・・・
が、これに応え、答える寺・僧侶が如何ほど居るだろう?

坊主が飢えずに暮らせるのは日々の暮らしを支えるために働き、重税に耐え、如何に生きるかを
考えている人たちの寄進の「おかげ」である。
なのに、広大な敷地の固定資産税などはどこ吹く風。口だけ大乗。することは自己満足だけ。
しかも「葬式は坊主が執り行う。それが常識である」と思い込み、それを払拭することができない。
そういう坊主は「葬式は仏式」という一種の原理主義者でしかない・・・ネット掲載文より


余談・・・何人かの寺の息子が「坊主(ぼうず)と呼ばれるのはどうも響きが良くないから嫌だ」と
言っていた。が、とんでもないことです。
坊主(本来は房主)とは寺の敷地にあるいくつかの坊のあるじ=主(しゅ)のことです。
例・仁王立ちで主君・義経を守った武蔵坊弁慶は鞍馬山の武蔵坊の坊主・ぼうしゅで、
僧名が弁慶です。
ぼうしゅでは無くぼうずと呼ぶのは坊主たちが俗世間で俗にまみれ、丸刈り頭で
泳いでる姿を揶揄しての表現では?

小噺を一つ・・・お葬式でお坊さんが経を唱えているとき、孫がガサガサするのを見たおじいさんが、
       「コラッ、ぼうず。静かにせい」と叱ると、お坊さんが振り返り「へぇ、もうすぐ終わります」


江戸時代の戯言・・・夜の祇園で小石を投げりゃ 最初に当たるは坊主の頭

死ぬとは 他人のことと思っていたが おいらが死ぬとは こいつぁたまらねぇ

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次に紹介する文章は、以前に立ち上げていたホームページでもUPさせていただきました。
面識はありませんが再度掲載させていただくことをご了承ください。

今生きている人のためのお寺・・・
故郷若狭はお寺の多い町です。雪の中を托鉢に歩くお坊さんのはちに、小銭を入れるのが
楽しみだった思い出もあります。親は時々寺の行事に出かけたりしていました。
でも、私にとってはそれ程身近なものではありませんでした。「死んだ人の為にあるものだ」と
感じていました。
ところが結婚・出産と年を重ねていくと、どんどん寺に対して疑問が膨らんできました。
長男が昨春結婚する時、人ごとではなくなりました。仏壇もお墓もある一人娘さんとのご縁でした。
幸い私どもにはまだ仏壇もお墓もありませんが、型通りに考えれば長男夫婦は大変です。
「何でお寺やお墓の事で、今生きている人間が困らなければならないの? 仏教って何?」と、
以前からの疑問が頂点に達しました。
 「今、生きている人間の幸せを第一に」と自分で決めた時、すっきりとしました。
主人とはまだ一致する所までいきませんが、私は生きている人を困らせる様な先祖には
なりたくないと思っています。
親である私を忘れてくれていいと考えています。精一杯この世を生きる事……他に大切な事って
何でしょう。それからは、仏教やお寺などについての本を色々と読んでみました。
そして、本当に本当にびっくりしました。
本来の仏教とは生きている人の為にあり、先祖供養や葬儀とは直接つながるものでは
なかった事を知ったのです。
又、お寺のあり方に疑問を持って寺を飛び出した僧侶もあった事を知り、何だか気が楽になり
ました。そして、仏教のすばらしさも少しは知りました。
もし、本来の仏教が正しい形で広められていたなら、どれだけ多くの人が救われた事でしょう。
と同時に、檀家制度で苦しんでいた先祖への思いで胸がつまります。
一つ間違えば宗教は怖いものです。いつの間にかお寺を無条件で信じ、葬式やお墓や仏壇の
あり方も黙って受け入れなければいけないものだと思い込んでしまうのですから。
 「この今をどう生きたらいいかを問うのが仏教の本命」であり、今をどう生きるのか迷っている
人々が気軽に行ける所がお寺。そんな風であったらいいですね。
 「心の時代」と言われる現代に、いっぱいあるお寺が本来の仏教を正しく伝える役目を果たしたら、
日本はすばらしい国になるかもしれないと思います。檀家制度を根本から考え直す時では
ないでしょうか。幼い頃から「ご先祖さまは大切にしなければ罰が当る」とよく言われましたが
わたしはこの言葉には少し抵抗を感じます。
ご先祖さまも大切かもしれません。でも何より今生きている人を大切に。
「ご先祖さまという言葉でこの世の人を不幸にだけはしないで下さい」と申し上げたいのです。

この文章は、「本来の仏教の説く、無執着・諸行無常・諸法無我」に触れることなく、
荒んだ社会問題に自ら対処・提言することもなく、寺族の食い扶ちとして、死後の行事に専念する
ことしかできない
多くの寺、僧侶への改心を促しているのではないでしょうか?
この女性の思いを寺・僧侶が真摯に受けとめ、本来の役目=自らを律し、菩薩道をきわめた上で、
庶民の心の病に応え、共に答えを見つけ出し、共に菩薩道を歩めたならば
素晴らしい日本になるでしょう。

*この掲載文がホームページ立ち上げの要因となったと言っていいでしょう。

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「最近、幼い子が児童虐待による死を強要される事件の報道に於いて、この問題に限らず多くの
社会問題は心の病が起因ではないだろうか?
必ず批難されるのは児童相談所の対応である。
しかし、この心の病に対し、応病与薬・対機説法で取り組む筆頭者は寺・僧侶なのでは?
広い敷地にそのような子を受け入れるという姿は殆ど見られず、またホスピスという概念も
無いに等しい。ただ、口にするのは死後の行事、先祖供養だけと言っても過言ではないだろう。
そのことによって、庶民は釈迦の教えを享受するのではなく寺・僧侶を葬儀・死後の行事のツール
としての存在でしか受け入れていないのでは?」

「本来なら寺とは、いかに生きるべきかを伝えるべき場所であり、現在、悩みを抱えている人こそ
お寺に行くべきである。しかし、
多くの人は亡くなった方にお経をあげるだけの場所と思っている。
又、寺も葬式と法事だけの業者に成り下がり、その寺に先祖を担保に取られている信者には、
信仰の真の自由が必要であろう」


児童虐待で必ず批難されるのは児童相談所の対応である。が、そうではない。
先ず、非難されるのは寺である。しかし、僧侶の口から、心の悩み、痛みから生じる
社会問題
への積極的な解決策を聞いたことがない。話す能力、行動する労力がないのだろう」


「葬儀と死後の行事以外は閉じこもり、庶民の心の病には銭にならないから応じない。
正に、日本の寺に仏教は無い」


このような事件がありました・・・若い無職の義父が嫁の幼い連れ子を毎日のように虐待し、
3月のある日の夜にその子が失禁したのを見た義父が「出て行け」と怒鳴ると
『夜は怖いので朝になったら出ていきます』と懇願すると、義父はベランダの冷たいコンクリートに
段ボールを敷きそこに寝かせました。
3月と言っても夜の外、ましてや段ボール一枚の上で・・・その子の無念さは計り知れん。
夜中に隣の人が「わぁー。綺麗なお花畑」という声を聴いたそうです。その子はそのまま死にました。
日本仏教会から、この事件についての言葉は聞きません。
また、坊主が口にする『菩薩道』って何?死んだら拝んでやる?

「子供の虐待は本当にキツイ刑に変えないと、早く法律変えてくれ。
大人にすがるしかない年頃の子供たちには防御策がない、食事、家、医療の全てを
糞親に頼るしかない。年に何件起きてるんだよ。
心の病を取り除くのが本来の務めである寺・坊主の声が全く聞こえない。言うわけないだろう。
袈裟、衣をまとっているときだけの姿だけの職業坊主には
この子の声が聞こえないのか?
聞こうとしないのか?」


「寺・僧侶の最大の使命は、心の悩みを持つ人々に菩薩道を説き、共に実践することである。
しかし、寺・僧侶はこれに応えない。
応えるのは葬儀と死後の行事。何故か、お金になるから。」

「社会的問題は対岸の火事として見つめるだけの寺・僧侶の姿に庶民は気付いた。
衣をまとったときだけの僧侶を呼ばない。僧侶のいない葬儀が定着するのはもはや時間の問題
      

     ・・・以上のネット掲載文に、寺・僧侶はどのように応え、また答えるのでしょうか?


   
             次回は日本仏教の変革です。

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