日本仏教の変革
*日本へ伝来した仏教は大乗仏教です。
シルクロードを経て中国に伝わる中でそのころ興った大乗思想(大乗仏教)と周辺民族の風習や土着の信仰、そして子たるものの為すべきことは、父母につかえると共に祖先の霊を敬い供養することが「孝=父母・目上の人を大切にする」の最たるものであるという価値観があった儒教の
影響を受けた仏教が、朝鮮半島を経て日本に伝来したのは大和朝廷が
日本の最初の統一国家を築いてから二百年余り経ったころの六世紀の半ばごろである。
それは庶民の懇願によるものではなく天皇、貴族により受け入れられたものであり、金製の仏具に魔力を感じ、国家鎮護とともに死後の安楽を説く浄土思想に強く影響され、
仏教による祖霊崇拝と、死者供養が最も有効と信じられた。
この葬送儀礼の多くは儒教を起源としている。
それにより仏教を葬儀儀礼と、父母の死後の安楽なることを確信する手段として受け入れた。
また国家権力の保護を受け、彼らの病気平癒、豊作、天気、安産を始めとして全ての吉凶を僧侶の祈祷に頼り、天皇、貴族たちは仏教のご利益を心から信じ、個人か、あるいは国家的立場によって寺を建て、荘園(平安時代より室町時代にかけての貴族、寺社の私的な領有地)を寄進して
仏像を納め、個々の利益を求め、仏教の利益を独り占めする代償として巨万の富を
おしむことなく投じた。
ここで大事なことは「巨万の富」は庶民の血と汗により(中には脅迫的に)作り出された
ものだということです。
そして僧侶は国家公務員としての地位を与えられ、国家に忠義を尽くすことを義務付けられ、
庶民に仏教とは何かを説き、教えることは禁止されていた。
*明治政府による「僧侶の妻帯は咎めないよ」という令の引き換えに、不殺生という
戒(いましめ)を投げ捨て、敵を殺すことが皇国のためであることを正当化して
徴用坊主となり下がったことに反省し続ける坊主が何人おるのか」・・・ネットより
やがて、天皇、貴族による政権に代わり、武士が国を治める鎌倉時代に入ると阿弥陀仏の救済により、死後の世界での幸福(冥福)を願う浄土思想が庶民の間にも広がり、人々のこころをつかんだ法然の浄土宗、そして法然の弟子親鸞の浄土真宗が権力者だけでなく庶民にも受け入れられていき、「いかに生きるかの教え」が「見知らぬ死後の教え」と変貌してしまいました。
*浄土とは本来、覚りを開くために精進する清浄なる処ということです。
しかし、大乗仏教に於いては阿弥陀仏の救済によって(死後)浄土に生れ、悟りを開くという
浄土思想により、死者の赴く処と捉えられた・・・ブッダはこんなことは言っていません。
ブッダの弟子である法然も親鸞も一偏も、命あるうちに弥陀の救いに目覚めよと説いている。
死んでからの念仏ではない。命あるうちの念仏である。
*以上の文は15・16ページの、愛読書1・2を参考にしています。
その後、島原・天草の乱を機に、僧侶は「人としての生を如何に活かし、活かされ、生きるか」
を説かずして、「見知らぬ死後の教え」を説くことに重きを置き、現在においては寺は墓地を
貸し与え、借地料を徴収する場所として存在していくことになってしまった。
・・・島原・天草の乱・・・
島原・天草の乱は僧侶が「見知らぬ死後の教え」を説くことに重きを置き、
寺が「見知らぬ死後の教え」を説く場所として存在していくことになった決定的な事件であり、
日本仏教の変革を綴るには避けて通ることはできません。
長文ではありますが、島原・天草の乱を綴つて行きます。
天文十八年(1549年)イエズス会士フランシスコ=デ=ザビエルらが鹿児島に上陸し、
キリスト教(カトリック教)の布教をはじめた。
そのキリスト教およびその信徒をキリシタンという。
ときの将軍足利義輝、そしてその後、織田信長の布教許可を受け広まっていきました。
そして、公卿・大名のなかにも改宗する人達も増え、彼らの領地には教会や病院が建てられる
ようになり、豊後国の府内(大分県)や肥前国(長崎県)の平戸、島原半島の口之津などが
キリシタンの拠点となった。
しかし、秀吉の時代に入ると政策の思惑のずれからキリシタンを禁教とする
天正の禁令(1587年)が出され、慶長元年12月19日(1597年2月5日)、
秀吉の命令により26人の男子カトリック信徒が長崎で処刑された。
この出来事を「二十六聖人の殉教」といいます。
臨済宗の僧侶が書き上げた「キリスト禁止令」・・・
その後、家康により開かれた徳川幕府も秀吉の禁教令を引き継いでキリシタンを厳しく
取り締まり、慶長十八年十二月(1614年1月)、臨済宗・南禅寺の僧、崇伝に
「伴天連追放之文=キリスト禁教令」を起草させ全国規模のキリシタン取締りを
実施して改宗させ、檀家となることを命じた。
・・・閑話休題、慶長十九年(1614年)、豊臣秀頼が京都方広寺の大仏殿に釣鐘を
寄進の際、その銘にあった「国家安泰」「君臣豊楽」は「家康」を切り裂き、
「豊臣」家の子孫が繁栄することを願ったものだという言いがかりを思いついたのも
臨済宗の僧侶だと言われています・・・
大阪冬の陣・夏の陣により豊臣家を壊滅させた徳川幕府は寺院を取り締まるための
「寺院諸法度」、幕府の基本方針となる「武家諸法度」、そして朝廷権威に制限を加える
「禁中並公家諸法度」が制定された。
幕府による過酷なまでのキリシタン弾圧が行われる中で、元和八年八月五日
(1622年9月10日)、神父や修道士と彼らをかくまった信徒と老若男女を含むその
家族全員、55人が火焙りの刑と斬首によって処刑されるという「元和の大殉教」が起った。
火焙りの際、木々に水をかけ、より長くもがき苦しむように処刑されたといわれます。
この行為に対し何人の僧侶が「不殺生戒」を説き、権力者を戒めたでしょうか。
この事件の後、幕府によるキリシタン弾圧はさらに強化されていき、その中で起こったのが
「天草・島原の乱」である。
「天草・島原はキリシタン大名として知られる小西行長が天草を、有馬晴信が島原を領主として
治めていた。それゆえ、キリシタンの多い土地でした。ところが関が原の戦いで豊臣側についた
小西行長が敗れると様相が一変し、キリスト文化を謳歌していた全盛時代にピリオドがうたれ、
天草領は肥前唐津領主・寺沢広高に与えられた。
以後、天草の人々は過酷な年貢に苦しめられることになった。一方の島原領は松倉重正に与え
られ、重正も島原城築城等の名目で領民に過酷な労役と重税を課せ、納めない者に対しては蓑を頭と胴に結びつけ、背後にした両手を綱で縛り上げ、蓑に火を放つ。
火をつけられた領民は転びまわる。その姿が踊っているようなので蓑踊りといわれた刑を科し、
逆さ吊りや、妻、娘を水攻めにして年貢を納めさせた。
その他、家に戸口を一つ作れば、戸口銭(ぜに)、窓を作れば窓銭、棚を作れば棚銭、
室内に火を炊くところを作ると囲炉裏銭。
まだある、子が生まれると頭銭、人が死に穴を掘って埋めれば穴銭と、取れるだけ取り立てた。
また、キリシタン迫害は温泉の熱湯を掛け、気絶すると蘇生させることを繰り返すという
凄まじいものでした。
重正の死後、子の勝家が家督を受け継いだ。
そのころ全国的な大凶作となり、島原半島でも飢饉が続き、多くの餓死者が出ました。
そうした中でも、勝家は領民への圧政とキリシタンへの迫害をさらに厳しいものました。
寛永十四十月中頃、口之津村の与左衛門が年貢の未納三十俵のかたに、子を宿していた嫁が
身を切る寒中の川にさらされ、六日のち母子もろとも死亡するという惨い事件が起きました。
また二十三日頃、有馬村の三吉と角内の両名が天草大矢野にわたり、天草四郎よりキリシタンが礼拝する絵像を授与され持ち帰り、七百人余りの村人を集め布教し、人々はキリシタンに立ち帰りました。
翌日、知らせを受けた松倉家中の者が二人を捕らえ島原城にて処刑いたしましたが村人らは集会をやめず三吉・角内をほめたたえ礼拝していましたが二十五日、これを阻止するために
向かった代官林兵左衛門ほか数名をキリシタンたちは殺害し、直ちに代官、僧侶、神官たちを
殺害し蜂起しようという触状を村々へ廻し、キリシタンたちはそれらの者を馬に乗せ村々を
引き回し惨殺し罪なき旅人までも惨殺、磔に処する行為に出たのでした。
キリシタンの中には小西行長、有馬晴信に使えていた浪人が数多くいて、武力により多くの民に
改宗を迫り従わない者には危害を加え無理に蜂起させられた農民たちがいたことも事実です。
数日後、天草でもキリシタン、農民たちが蜂起して島原、天草合わせて三万人近くの一揆勢が
できあがり、小西行長の遺臣であった益田甚兵衛好次の子、四郎という少年を総大将として擁立し原城に立て籠もり四ヶ月に及ぶ戦いが始まりました。この四郎が有名な天草四郎時貞です。
明けて、寛永十五年一月元旦(1638年2月14日)、板倉重正率いる第一次討伐幕府軍が
総攻撃を行ったが、板倉重正は戦死し、原城を落とせなかった。
その後、幕府は老中松平信綱を総司令官とする第二次討伐軍を派遣し一月三日、幕府軍は
一揆勢が立て籠もる原城近くに着陣した。
十二万余りの軍勢で原城を包囲して兵糧攻めを行い、オランダの軍艦に救援を求め総攻撃の
準備に取り掛かった。
オランダは宗教改革によりプロテスタントになっていてプロテスタントはキリシタンではなく、キリシタンはカトリックであるとしていた。
しかし、一揆勢のキリシタンにすれば南蛮人はキリシタンと思っていたので
オランダ(南蛮人=キリシタン)軍艦が砲撃することは驚きであり、嘆き悲しむ行為であった。
二月二十日ごろ、夜襲をしかけて戦死した一揆勢の腹を切り裂いてみると、海草や麦の葉などが
出てきたことから、もはや食料が尽きていると判断し二十八日早朝、総攻撃が開始された。
立て籠もる一揆勢は食べ物、矢弾もつきはて落城寸前であったが女、子供といわずに鍋釜、
石礫、材木など武器となるものを投げつけ最後の反撃を試みた。
しかし、一揆軍総大将、天草四郎は城内礼拝堂において敵軍の槍で討ち死に、他の者は猛火の中に飛び込み、あるいは城壁より海に身を投じ、生き残った者の多くが斬首され全滅しました。
四郎の首は一万あまりの首とともに原城の大手門に晒されたといわれます。
恐ろしい光景ではありませんか。
幕府軍も千人余りが戦死し、七千人にのぼる負傷者が出ました。
幕府はキリシタンを改める者は罪を許し、なお改めない者は老若男女を問わず首を切り、
晒すとの触れ書きを立てた。
そして一揆勢で生き残った人たちを元の土地に帰らせ、未納の年貢とこの年の年貢はすべて
免除するという温情な触れを出しました。
その一方で、この乱のきっかけを作った島原藩主松倉長戸勝家は、寛永十五年四月十二日、
所領六万石を没収、美作国津山藩に預けられ、島原の乱鎮圧の不手際と普段から年貢を
増徴して民を苦しめた罪により七月十九日、彼を切腹ではなく打ち首に処した。
これは大名に対する刑としては稀なことである。
また、唐津藩主寺沢堅高は所領十二万石を八万石に減俸、蟄居を命ぜられた。
寛永十六年六月十六日、ほぼ一年二ヶ月ぶりに蟄居を解かれたが正保四年に自殺している」
・・・神田千里著・島原の乱。より・・・
私は終戦の翌年に疎開先である父の故郷、長崎県平戸で生まれ、一年を過ごしたそうです。
今までに6回訪ねました。そのつど親戚の方たちのあたたかい迎えをいただいたことと、
平戸港からの平戸城と教会と寺がマッチした何とも言えない景観を心にとどめています。
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宗教というものは所詮、人間の考え出したもの。故に後世の人たちによって塗り替えられる。
そして、葬式坊主と揶揄されるのは葬儀へ赴く姿勢「便乗仏教」を指しているのです。
「坊主とは他者の言動、思考に便乗し、その場において他者と一体感を演出し、
荒波を立てないで乗り切り、他者による第三者への指摘に便乗し、その後の利益を享受する。
共同作業の中で他者の言動、思考に便乗し、自身に対するさらなる利益を求める」
・・・ネット掲載文より
(坊主の)屁理屈と膏薬はどこにでも貼りつく
次回は国民統制の檀家制度を綴ります
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