国民統制の制度・檀家制度

私の尊敬する某寺の住職が数年前に亡くなられました。その住職が
「インターネットの普及で困るのは報道関係と寺・坊主です。坊主もヘタなことが言えません。
そして、小賢しい能書きを垂れる坊主になってはいけません。
坊主にまさる、智慧ある庶民は山ほどおられる」
と言っておられた。
この言葉通り、現に報道関係の偏向によるフェイクニュース。そして、寺・僧侶のあるべき姿。
また、死後の行事の概念を覆すといっても過言ではない情報がネットによって
知ることができる時代である。

では、本題に入りましょう。
前回の続きとなりますが、今回は、キリシタン弾圧と「天草・島原の乱」の産物である
「檀家制度」を綴っていきます。

イエズス会士、バテレンは島原・天草の民・百姓を扇動して原城に立て籠もらせました。
しかし、死んだ遺骸の中に彼らの遺骸は見つかりませんでした。
彼らは日本人を信者にして煽るだけ煽り立てて、自分たちはとっくに逃げうせたのです。
キリシタン・バテレンの子供達に墓を暴かせ、神社や仏閣を破壊し、
神具・仏像を薪にして燃やし、日本の公序良俗の美風を踏みにじったのです。
(僧侶、宣教師も人間。共にしていることは人間の醜さです)

一揆勢鎮圧後、幕府は自身の失政を一大名に転化させ、それを覆い隠す名目で
この乱を過酷な重税に耐えかねた農民による百姓一揆をキリシタンによる一揆と決めつける

と同時に、宗教の恐ろしさというものを読み取り、寺・僧侶を利用した上で全庶民を
権力によって如何に押さえつけるか、監視下に置けるかの新制度を次々と制定、
また既存の制度を強化していきました。その代表が「寺請制度=檀家制度」です。

幕府は庶民に対し「宗門改め」によりキリシタンかどうかを取り調べ、キリシタンでないことを
証明させるため、庶民に対して必ずどこかの寺院の檀家になることを厳格に定めた。
寺院は檀家がキリシタンではないことを証明する「寺請証文」を作成し、
寺院は檀家の名を一戸ずつ記載し、一町、一村単位の台帳「宗門人別改帳」が作られた。
寺が寺請証文を作成、それを戸籍である「宗門人別改帳」に記載する義務を引き受けることで、
檀家を確実に把握することとなった。
この制度により庶民は必ずどこかの寺院に所属する僧侶による葬儀とそれに伴う死後の仏事を
しなければいけないことになりました。
そのことにより、寺・僧侶は労せずして途切れることのない金銭を得ることとなった。
このことは何を産み出すか。
それは仏法をないがしろにし、寺は葬儀を職とした企業組織となり、僧侶は職業僧侶となった。
僧侶は聖職者ではありません。職業が僧侶なのです。

なんと、偽作の法度まで作り上げた坊主たち・・・
 十七世紀末には寺院の偽作による「御条目宗門檀那請合之掟」
 「請寺院条目」なるものが出された。
 そこには、檀家はその宗門開祖の命日・釈尊入滅の日(二月十五日)・盆・彼岸はもちろん、
 先祖の命日にはかならず檀那寺に参拝すること。
 そして檀那寺以外での先祖供養を頼むことは許さない。
 死者が出たときの検死、葬式は檀那寺の指図を仰ぐこと。檀那寺の雑役、修繕費、建立、
 住職の僧階昇進の際の冥加金、本山への寄附金は、身分相応に負担すること。
 そして、住職の生活費までも義務付けすることが記されています。
 是非ともネットで「御条目宗門檀那請合之掟」を検索してみて下さい・・・

現在のように僧侶が葬式を執行し戒名を授けるという習俗が定着する上で
 重要な役割を果たしたのが
「御条目宗門旦那請合之掟」という寛文年間(1661-1673)
 に出された偽文書である・・・ネットより


庶民の先祖たちは檀家制度の名の下に食い扶持を減らしても寺院と寺の住民に資金を運び、
それを拒否すると邪教信徒の烙印を押され、村八分あるいは労役などを負わされました。

また、庶民は寺に結婚・出産・職種・旅行などの届けを義務付けられ、寺は市役所・
区役所のような業務も行うようになり、寺側の意向に反して寄付金などを納めない檀家に対して
「宗門人別改帳」からはずし、キリシタンではない保証をしないという強硬な手段に出る。 

離壇も許されない檀家制度を傘にして、権力者の下僕と成り果て、庶民を上から見下ろす
愚か者に堕落してしまった。
現在、庶民が目にする大小の寺院が存在し得るのは先祖たちの「布施・寄進」という名に変えた
血と汗によるものだということを忘れないで下さい。

この制度は明治政府により廃止されたが、多くの寺院は檀那寺だと威張り、葬式と墓守り、
そして経の配達で日々を送るという堕落した集団に成り果てた姿が現在の多くの寺、僧侶です。
寺が檀家を得たのは寺の努力によるものではなく権力の強制が檀家を増やしただけであり、
寺・僧侶はその遺物にしがみついているだけである。

「そもそも檀家制度自体、仏法とは何の関係もない。一向一揆に苦しんだ徳川幕府が寺を
権力支配下に置き、キリスト教を弾圧して人々を支配するために作った制度。
それすら、今の檀家は知らないという悲しさだ」
・・・ネット掲載文

現在、わたしたちが目にする大伽藍、あるいは町や村に存在する寺院の殿堂の多くが
わたしたちの家に較べてきわめて大規模なものです。
そこに住まいする寺族の生活を支えてきたのは檀家制度さらには本末制度という収穫機構で、
それが布施、寄進として十二分に機能し収穫され、その結果であるということを
忘れないで下さい。信心に依るというのは表向きの説明にしかすぎません。
そして葬儀と死後の行事に僧侶がかかわることは暗い歴史の産物であることを
忘れてはいけません。

庶民に浸透した仏式葬儀の歴史は300年ほどのもの・・・
 葬式と先祖供養を執り行う権利を与えられたことにより、生活の安定を得ることになった
 寺院はさらに檀家に対し、さまざまな義務を強いることになっていった。
 従わない者は「宗門人別帳」から外すと脅せばよい。これが「檀家制度」です。

 これにより僧侶が葬儀を日々の食い扶持とし、葬儀を職となす時代が始まったのです。
 ということは、庶民が位牌や仏壇を置く習慣も仏式葬儀とのかかわりも三百年から
 三百五十年ほどのことでしかありません。しかも、権力者の国民統制政策として・・・
 権力者の加護により、仏教を都合よく絡め、形骸化され、感情論に過ぎないとも言える
 仏式葬儀の虚しさ。また、それに拘る必要がないことがおわかりいただけるでしょう。

 近頃、諸問題により墓の維持が難しくなり墓を処分する「墓じまい」が増えつつ
 あることが新聞・ネット等で取り上げられてきました。
 その中で「離壇料」というものが問題点として取り上げられています。


「寺は墓地を貸し出すときに檀家・信者から借地料に当たる代金を受け取っているのでは
ありませんか?
墓じまいのときは業者への作業料を支払うのは問題ないのですが、
なぜ寺にお金を支払わないといけないのでしょう。読経してやったからですか?
これとは別に「御霊入れ・御霊抜き」という作法に対してもお金を要求されます。
寺との付き合いは孫子の代まで、金銭が絡むなんておかしい」
・・・ネットより

先ず、経典の中に、亡くなった人への言葉はありません。
次に、数えきれない仏教経典の中に「御霊入れ・御霊抜き」は説かれていません。
ですから、私が彫刻した仏像は個人的な願いを祈るだけなので「御霊入れ」などは
していません。

見て下さった方の「うぁー、綺麗」という言葉で充分です。
しかし、多くの人たに信仰されてきた仏像には長年に渡る純粋な願いが込められています。
なので、その方たちのご依頼には、御霊入れ・御霊抜きを
願い・祈りの継続、新たな始まりとしての儀式として捉えていただいた上で
淡々と務めさせていただきました。

仏式葬儀に拘る人はそれで良し。拘らない人はそれで良し。
同じように、御霊入れ・御霊抜きに拘らない、拘るはそれで良し
「しなくてはどうこう成る」に拘らなくて良し・・・これが私の考えです。


以前、名称は定かではありませんが「世界宗教者平和会議」と記憶しているのですが、
その中に次の文が記されていました。
     「日本の檀家制度は世界の宗教上において最も愚劣な制度であり、
         戒を捨て去った日本の僧侶は聖職者ではなく、単なる信者である」


          次回は檀家制度と切り離せない 戒名を綴っていきます

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