戒名について

本題の前に、仏式葬儀とは、どのようなことをしているのでしょうか。を記していきましょう。
ほぼ江戸時代まで、僧侶が葬儀にかかわっていたのは貴族・権力者など限られたものだった。
その儀式に「決まり」というものは特になかった。
しかし、島原・天草の乱のあと徳川幕府から突然、庶民統制を目的とする葬儀の執り行いを
命じられた寺・僧侶が思いついた儀式が禅宗の用いていた亡僧喪儀法( ぼうそうもぎほう )と
いうもので、修行の途中で志なかばで死んだ僧を弔う儀式です。
そこからヒントを得て、亡くなった人を僧侶とみなしての没後作僧 ( もつごさそう )を行うのが
仏式葬儀です。
そして戒名とは、お釈迦さま(ブッダ)が定めた「いましめ」を守る証として与えられるもの
ですが、ブッダの説いた八万四千の言葉を編集した仏教経典の中に金銭による戒名の
授与は説かれていない。

「戒」とは・・・
仏教の祖ブッダは出家者=僧侶に、悪行を慎み、人として生活する上に於いて出きる限りの善行を
自発的に実践するための道徳的な修行規範をさだめました。それが「戒」で、
それを守れない者に対してさだめた罰が「律」で、前者と後者を合わせたのが「戒律」です。

僧侶は在家と出家の生活態度の違いを明確にするために比丘(男性)ならば250戒、
比丘尼(女性)ならば348戒を受けなければならないという決まりができました。
仏教が中国へ伝来すると、新たに僧を志す者は三師七証(3人の教師と7人の証人)の前で
「戒律=おきて・きまり」を守ることを誓う儀式「授戒」を経て、正式に僧として認められるという
制度ができあがりました。

日本は「授戒」を国策として導入・・・
六世紀半ば仏教が伝来してから奈良時代初期まで、日本の仏教界には公の戒律がなかった。
この頃、仏教を信奉する国策により僧侶は納税の義務が免除されていた。この政策を利用して重税に苦しむ庶民のなかに僧侶(にわか僧侶)になる者が増え、朝廷は税収の減少に頭を悩ませていた。
僧侶を弾圧する訳にもいかず、また仏法を学ぶ姿勢も示さない「にわか僧侶」たちには仏法を学ぶ
姿勢もなく風紀も乱れ、由々しき事態であった。
時の天皇、聖武天皇は「授戒」制度を導入することで国家が認めた授戒師から受戒した者だけを
僧侶と公認して僧侶の数を減らし、僧侶の質の向上を図れると考えました。
ところが仏教が日本に伝来して以来、戒を授ける「戒師」はいなかったのです。
「戒師」として始めて日本へ招かれたのが鑑真です・・・

鑑真・・・
天平勝宝五年(753年)唐の高僧、鑑真が聖武天皇の懇願に応え暴風雨や政治的な妨害によって
五回も日本への渡航に失敗し、十二年をかけ両目を失明してでも命がけで「戒」を授けるため日本に渡来したのも、正しい戒を伝承するためであった。それくらい規範は仏教にとって大切なものです。
翌、天平勝宝六年(754年)東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、天皇、並びに440名に
授戒を行いました。
当時の僧侶は国僧=国家公務員であったためこの後、正式に授戒したものだけを僧侶と認めました。
これにより税金逃れの僧侶数は激減し、財源増収に繋がりました。

これを知った鑑真は「わたしは僧侶を減らす為に来日したのではない。
朝廷の財源増収のためではない。正しく仏法を伝え、仏法を享受できる僧侶を数多く世に送り出す
思いで、命をかけて渡航してきたのは何だったのか」と落胆した。
その後、朝廷との思惑の違いから大僧都を解任され東大寺を追われました。既に七十歳、
もはや海を渡り国に帰る体力はありません。
その境遇を知った新田部親王は旧邸宅跡を鑑真に土地を寄進してくれました。
鑑真はその地に「広く、仏教を修学する人を拒まない」という意の「唐招提寺」を開きました。
「唐招提寺」は私寺だったのでここで授戒しても国からは正規の僧とは見なされなかったが
鑑真を慕う人達が次々と寺を訪れました。

鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど
積極的に貧民の救済に取り組む姿に人々は尊敬の思いを寄せました。
天平宝字七年五月六日(763年)鑑真は西に向かい結跏趺坐(けっかふざ、座禅)の姿で
息を引き取ったのです。享年七十六歳。

鑑真が広めた厳格な授戒制度は「最澄」によって骨抜きにされる・・・
日本天台宗開祖・最澄は僧侶の守るべき戒は、重い戒律十と、軽い戒律四十八、合わせて五十八
だけでよいとする「大乗戒(十重四十八軽戒)」を打ち出し受戒の儀式を徹底的に簡素化した。
これが広く受け入れられ鑑真が広めた厳格な授戒制度は実質的に無効化されました。 

最澄の大乗戒の思想は、その後の比叡山延暦寺の弟子達によって「あらゆる生きとし生きるもの
すべてに悟り・解脱の機縁となる仏性が備わっている「一切衆生悉有仏性」「衆生の平等な救済」
という思想「天台本覚論(てんだいほんがくろん)」へと再編成されました。

これにより、僧侶の煩悩や欲求を肯定して、煩悩や迷いを乗り越えることが出来ない僧侶でも悟る
ことができる煩悩菩提とし、重い戒律を破っても懺悔、改心すれば罪を解かれ僧侶として復活できる
という、もはや「戒」とは僧侶の誰ひとりとして守れない観念論となり、それでも教学は成立し、
本来の僧侶が歩むべき姿を沈めてしまった。・・・
そして、「戒」の中で僧侶として最も重要なのは「不殺生戒(ふせっしょうかい)です。
次に女性と性的交わりを結んではならないという「女犯戒(にょぼんかい)」です。
しかし、浄土真宗の始祖・親鸞がそれを破り、仏教の僧侶や信徒であるからといって
(煩悩を消尽するための)戒律を厳しく守る必要はないという流れが決定的となりました。
*親鸞が妻帯を決めたのは「僧侶であるまえに、私は性欲を抑えきれない愚かな凡夫でしかない。
このような私は必ずや地獄に堕ちるでしょう」との覚悟があってのことです。


*大乗戒のどこに肉食妻帯と金儲けが容認されてるのか!!

*明治に入るまで浄土真宗以外の宗派では妻帯は、(一応)禁じられていた。
なぜ一応か、そう断言せざるをえないほど坊主は「女色」に締まりがなかった。
しかし、このことを猛烈に批判し、「戒」を尊重する僧侶もおられたのも確かである。

*妻帯はあたりまえがまかり通る・・・
「明治5年(1872)4月25日の太政官布告133号「自今、僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」が
契機となり、僧侶の妻帯は御咎めなしを制定されると雪崩のごとく俗人に成り果て、
妻帯がまかり通ることになってしまった。
日本の僧侶は、妻帯しておれば「在家僧」と呼ぶべきであり、本来の出家僧とは区別すべきである。
しかし、ここで忘れてはいけないのは妻帯御咎めなしの代償として徴用坊主の役割を負うことと
なり、戒律の冒頭にある不殺生戒はさておいて、戦死者の葬儀を執り行うこととなった。
権力者の前では不殺生戒は説けないのか。不殺生戒とは何なのか」
・・・以上ネットより


*日本の僧侶は戒律を軽視する性格なのでしょう。

「戒律」を軽視しする僧侶に「戒名」を付けてもらって何になるのか。
それは単なる名を改める「改名」でしかない・・・と思いますが?

何故、坊主が批判されるのか?釈迦の遺訓である戒を守れない者が、戒を守る宣誓とも
いえる名
「戒名」を与えるから。それも金銭の多少によりランク付けされている。

*ブッダは「戒」を定められたが、金銭によって戒名にランク付けする「戒名」などは
説いていません。
私の知る限りではこの特殊な習慣は日本だけで通用しているものだと思います。
ブッダは弟子たちに俗名(出家するまえの名)を捨てさせたり、金銭による特別な名前を
与えたりはしなかった。
葬式仏教が揶揄される原因は受け取る金品を「お布施」という名称に変えて、
しかも受け取る金品にランク付けをして躊躇なく?受け取り、それを生活の糧とする資質に
よるものです。

*北川紘洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」によると、
「戒名の起源はどうも中国の「字(あざな)」にあるようだ。
中国では実名のほかに「字=あざな」を持つという習慣があった。
たとえば、孔子の本当の名前は孔丘、字は孔仲尼(ちゅうじ)で、白楽天(字)の本名は白居易、
諸葛孔明(字)の本名は諸葛亮であった。

字はもともと成人男性に限られていたが、その後、女子にもつけられるようになり、
通常は本名よりも字のほうが一般的に用いられていた。
これは、実名を知られることを忌み嫌う風習があったからであり、実名のことを
「諱(忌み名=いみな)」というのはそのためです。

それがどうした理由からか、いつしか諱とは死後に送る称号(諱=
おくりな)という意味に
なったのです。
こうした中国の習慣が転じて日本では、戒名・法名というのができあがったといわれる。
しかし、それにしても当初は出家(俗世からはなれ)・得度(剃髪して仏門に入ること)して、
授戒(戒律を守ると誓い授かること)を済ませて仏道修行の途上にある人にだけ、
しかも現に生きている人にだけ与えられるものでした。
それを(有料で)在家の人に死んでから与えるというシステムを考え出したのは、
よほどの知恵者ではないでしょうか」

*「戒名」は暗い過去がある・・・
戒名が権力によって強制されたという暗い過去がある。暗い過去を隠すため戒名は
仏教徒の証であるという根拠のない主張がなされた。
戒名は国民の管理のために利用され寺はその一翼を担った。宗門別帳に戒名が記さなければ
その人間は死人とみなされなかった。戒名は死者の名として権力者と坊主によって思い込まされた。
しかも、坊主の策略で戒名を金銭でランク付けし、現在に至るまで執拗に戒名に拘り、檀家制度に
あぐらをかき檀家を増やすことにやっきとなっている寺・僧侶の姿をブッダの弟子である各宗祖は
どのように思われるだろう?
僧侶も庶民も葬儀の形式だけを追い求め本来の仏教の役割を問いかけようともしない。
何故か?檀家制度の名の下に「寺は葬儀をする場であり、僧侶はただの司祭者」だということを
僧侶は思い込み、庶民は思い込まされたからに過ぎない。

院号とは、邸宅・居所・寺院を意味する名称で、本名、字(あざな)につける別名)の他に用いる
優雅な名前で、道号とは、自己の悟りの内容や願い、趣味、生き方を表現してつける名前。
戒名とは、ブッダの決められた戒(いましめ)を守り、仏法に帰依する名前で二文字で表し、
名前の一文字を入れるのが主流です。
空海・最澄・法然・親鸞・一遍・栄西・道元・日蓮のように戒名は二文字です。

*一休さんでおなじみの一休宗純の一休が道号で、宗純が戒名です。

いちいち戒名で語りかけますか・・・
皆さんはお仏壇、お墓に向かいそのつど戒名を読み挙げ戒名に語りかけますか。
「お父さん、お母さん、○○ちゃん、何々さん」などではないでしょうか。
戒名の必要性を説く方でも戒名で呼びかけますか。
そういう方は由来についての多くの本が出ています。
またインターネットでも掲載されています、ぜひ目にしてください。仏教徒なら尚更の事です。

僧侶に、亡くなられた人をどうこうするする力はありません・・・
ブッダは
「生涯のあいだ、悪しきことをしてきた人は、重い石が池の底に沈んでいくように地獄へ
落ち込むのは当然である。
悪しきことをせず、善き行いをしてきた人はバターや油を入れた容器は沈んでも、
バターや油そのものは水面に浮かび上がるように自ずと天上界に生まれかわる。
いくら大勢の人が集まりガヤガヤわめいても、沈むものは沈む。浮かぶものは浮かぶ。
それは皆、自身の行為の結果であり、他の者はどうすることもできない」
と説かれた。

曹洞宗宗祖・道元の言葉
「死するとき、ともするものは業報(ごっぽう)のみ」
生を終えるとき、付いてくるのは自身が成した善悪であり、他の者はどうすることもできない。

僧侶が如何に衣を飾り、経を唱え、木片を燃やし、念仏を唱えても、亡くなられた方をどうこうする
力などあり得ません。思い込まされているだけのことです。
現代語に訳することなく僧侶は葬儀・死後の行事で経を棒読みしているだけです。
皆さんはその声、姿に満足して袈裟におじぎをしているだけでは?


  「僧侶たる者は 袈裟にお辞儀をさせてはいけない 
      庶民は袈裟にお辞儀をしてはいけない」
・・・一休さん
ネットで「袈裟にお辞儀」を検索してください。一休さんのおもしろい逸話が掲載されていますよ。
 僧侶が経を読み、引導作法により、責任を持って亡き人の行き先を決めることなどできません。

    引導は無事なる時に受け玉(たま)
     末期
(まつご)の旅に赴かぬうち 一休さん
妻や子が側
(そば)でなげくもきき入れず
  死んでゆく身に何の引導
 一休さんと親交のあった蜷川新右衛門

私が葬儀にかかわるのは私をよく知る身近な縁ある方たちだけにしょうと思っている。
何故か、死んでから行くのではなく、その人の人生が悔いのない充実したものであったことを
共に実感し、確認し、「良い人生だった。でしたね。あなたとのご縁に感謝しています」と、
言葉をかけて送らせていただきたいから・・・

そして、戒名に拘る必要はなく、俗名でも何ら問題ないことを伝えていきます。
葬儀で生計を立てる考えはありません。

余談・・・先日、久しぶりに長男、長女、次男と団欒する機会がありました。
長男が「お母さんが先だったらお父さんがしてくれるけど、お父さんが先に逝ったら
どうすればいい」と聞いたので
お父さんのときは、簡単な一日葬でいい。そして、坊さんは呼ばなくていい。
そのことを葬儀会社に伝えれば応えてくれる。そのような形の葬儀が増えてくるだろう。
出棺のとき菜々子にマドンナの宝石をバイオリンン演奏してもらったあと送ってくれたら
尚うれしい。
仏教経典に般若心経というのがある。この経は実体なきもの(空)を説いている。
だから、お父さんという体がなくなるが、お父さんが居たことは事実だ。
あとは何かのときに思い出してくれればいい。忘れてくれてもいい。
何故なら、仏教の根本教義は『執着するな。忘れなさい』だから」。
お父さんへの供養は子供・孫たちが良識を持って、仲良く暮らしてくれることだ。
それがが何よりの供養だと話した。

*私の葬儀の手順をSDカードに保存して、娘に渡しています。

『わたしは いま ここに 生きて 生かされています 過去にも 未来にも 存在しません。 
 ここ以外にわたしは 存在しません。 
生きて 生かされ その日 その時がくれば その所で ひとり旅立ちます。 
  ふと 誰かが 思い出して下されば それだけで ありがたい』・・・父より


夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。
それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
                        ・・・スッタニパータ・807句
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、
 ただ名が残って伝えられるだけである・・・スッタニパータ・808句


*私は20年も前から一日葬・直葬をお話ししている。最初、皆さんは怪訝な顔をされていたが、
今では仏教と葬式はほとんど関係のないことがネット、新聞等で取り上げられ広まりつつある。
 死んでから、執拗な行事に無駄なお金を使わせる必要は無い。

               次回は経典についてを綴っていきます。

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