「御条目宗門檀那請合之掟」
           (ごじょうもくしゅうもんだんなうけあいのおきて)
 

 
        今回は、ネット他の文章を参考にしてつづりました。

徳川幕府による過酷なまでのキリシタン弾圧にもかかわらず、更に信仰が強くなる中で
寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発。
翌、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結の島原・天草の乱が起こった。
幕府は再発を恐れ、その対応として考え出されたのが、国民全てを仏教徒として管理する
役目を寺に任せ、国民の全てが何処かの寺を菩提寺として檀家にならなければいけない
という「寺請制度(てらうけせいど)」の強化を図った。
つまり、檀家制度とは国家権力による国民統制の制度である。

それにより、幕府は毎年、キリシタン宗門改を人別に実施し、檀那寺は当人が自分の
寺の檀家であってキリシタンでないという証明書を作成し保証したのである。
此の証明書を「寺請け証文
(てらうけしょうもん)」と言う。

檀家寺に登録されている全ての者は「宗門人別帳
(しゅうもんにんべつちょう)」に記載され、
死亡すると「宗門人別帳」から抹消される、死後の名前「戒名」が付けられ過去帳に
記載され「位牌」が作られた、「位牌」は庶民の家々で祀られるようになり、又、お布施、
先祖の仏事(葬儀、年忌、月命日等)が強制され、他寺への法事の依頼・離壇の禁止が
義務づけられた、檀家寺は生まれてから死ぬまで庶民を管理する、今で言う戸籍管理の
権限を得たのである、庶民に「戒名」「位牌」が広まったのもこの頃と言われている。
ここで言われている「戒名」は仏弟子となる「戒名」でなく、
寺請制度のなかで、仏教教団が押しつけ官制戒名とでも言うべきでしょう。
庶民が行方不明になった場合は、「宗門人別帳」から抹消され無宿人として
取り扱われ、元の地には戻れなかった。

仏教教団はこれらのことを細かく取り決めた
「~君様御条目15箇条」(御条目宗門檀那請合之掟)を慶長18年(1613)付けで
作成し家康により出されたことにしている。
しかし此の文章の年号は偽文書であり、実際は享保20年(1735)前後の作成と
言われている。「御条目宗門壇那請合之掟」は各地の寺院、庄屋等宗門改めを行う
立場にあったものが所蔵していた。

そのなかに、こういう文言がある。
第一に、檀那はその宗門の祖師忌・仏忌(釈迦入滅の日、二月十五日)、盆・彼岸
     はじめ、先祖の命日にはかならず檀那寺に参詣
(さんけい)すること。
     参詣しない者は厳重に吟味する。
第二に、檀家は身分相応に、寺に対して各種の寄附を行うこと。
第三に、死去した際の検死、葬式等一切の指図を檀那寺に仰ぐことなどと、
     寺側が理想とする檀家増を浮き彫りにしている。
     
とりわけ金儲けに関するのは(九)〜(十二)条です。
(九)一、仏法勧談、講経をなして、檀那役を以て夫々の寺仏用修理建立を勤めさすべし。
     邪宗邪法事一切せず、世間交わり一通りにて、内心仏法を破り、勤めを用いず。
     吟味を遂ぐ可き事。
(十)一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事、是は宗門寺之住持死相を見届けて、
     邪宗にて之無く段、慥
(たしか)に受け合い之上にて、引導致す可(べ)き也。
     能々
(よくよく)吟味を遂ぐ可き事。
(十一)一、天下一統正法に紛れ之無きものには、頭剃刀を加え、宗門受け合い申す
     可
(べ)く候。武士は其寺之受け状に証印を加え差し上げ、其外血判成り難き
     には、証文受け合いを証文に差し出す可
(べ)き事。
(十二)一、先祖之仏事、他寺へ持参致し、法事勧め申す事、堅く禁制。然りと雖も、
     他国にて死去候時は格別之事、能々
(よくよく)吟味を遂ぐ可(べ)き事。

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(九)条では檀那(檀家)に寺仏の修理・建立の費用を負担させ、(十)(十一)条では
    検死して戒名を授け,引導を致す=葬儀を行い、(十二)条では離檀を禁止して
    先祖の仏事=法事をとり行うことを強制しています。
 
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吟味する」というのは、取り調べられるということ。まかりまちがえば、隠れキリシタンと
疑われ、一族郎党が捕獲されて殺されてしまうという恐怖を与える文言だ。
こうして、ひとびとは菩提寺に縛りつけられることになる。
交通手形も菩提寺が発行するので、それがなければ旅もできなかった。
つまり,寺院は檀家に対して常日頃から葬儀や法事を強要することによって自らの
私腹を肥やすため、「徳川家康」による「お墨付」きが役立ったのです。

そして、寺院側はこの制度をいわば悪用する形で、偽作である「御条目宗門檀那請合之掟」を作成し、それをさも徳川家康の時代からの法度の如く民衆に流布させました。
その理由は明確であり、寺院経済の安定つまり金儲けです。

そのような檀家と菩提寺の関係が、およそ300年間もつづいた。
そんなに長くつづけば、葬儀は仏式があたりまえ。
お坊さんにお経をよんでもらい、戒名をつけてもらうのはあたりまえ。
それをしない者は、隠れキリシタンごとき怪しげな者、不届き者という風土になっていく。
そういう歴史的な背景があって、葬式仏教を生業
(なりわい)とする寺・坊主があふれ、
葬式仏教と揶揄されるに至った。

このように、檀那役(布施や募財)に応じない者,先祖の年忌法事を勤めない者、寺参りをしない者などはキリシタンとみなすなどの文言がみられ、寺檀関係の実態をよく示している。
江戸期を通じて機能を発揮していた寺檀制度は1871年(明治4)に戸籍制度が発足しても、
翌年のいわゆる壬申戸籍には檀那寺が記載されていた。
しかし、2年後のキリシタン禁止高札の撤去によってようやく制度として廃止されたことを
庶民は知らなくてはいけないのではないでしょうか。

*仏教開祖のお釈迦さまは、僧侶が葬儀にかかわることを戒められた。
  そのお釈迦さまの弟子である日本仏教各宗派開祖も、それを戒めている。

*仏教経典の中に葬送儀礼は記されていません。

*仏教に御霊入れ、御霊抜きの教えはありません。

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今回の文章を読まれた皆さんに問いかけたいと思います。
『この数百年間、坊主に同じ商売を繰り返させていた信者側というか
   民衆側に責任はなかったのか』
 と言い切る坊主の姿勢をどのように思われますか?
 「葬儀はお坊さんで」と思い込まされた庶民に何の責任があるのでしょうか?
 思い込まされ、疑問視することなく、ありがたく思っておられる庶民を裏切る言葉です。

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             次回は「お帰りなさい」です

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