おかげさん・4
     
 


  

写真左より、お釈迦さまが好んでここに逗留され、説教をされた霊鷲山(りょうじゅせん)にて。
次、お釈迦さまはこの菩提樹の下で開悟された。
次、「僧侶ですか?」と話しかけてこられた現地の僧侶と。お礼を渡すのを忘れてしまった。

   ・・・友人・知人・ネット・新聞等から 「なるほど」 頷いたり感心したりの言葉・・・

数学が好きだという友人から「ネットで死後はあるか?の問いかけに俺と同じ考えが
 Upされていた」と連絡がきた。
 先ず、死後の世界はない。人間の意識は脳に属するので脳が停止すればそれ以上は無い。
 仏教の地獄って今の世界にそのまま出る。だから、俺は今を精一杯生きる。

行により得るものなし。
 修行の結果、何を悟ったの?坊主の修行なんて庶民の辛苦とは比べものにならない。
 寺に籠り、経を唱え、庶民の金銭を頼るなんて、そのような行いがどの経典に書かれているの?
 現実のものとなっている高齢化社会に伴う諸問題に寺・僧侶はどのように応じているのだろか。
 死んだら呼ばれて葬儀に赴き躊躇なく金銭を受け取り、その多寡によって寺族への信心を
 計るっていったい何んなの。

 
*受けを狙う

 
友人が「某寺の息子からあなたは受けを狙っているだけ」と言われた。
 そのとき俺は、何言ってんだあんたこそ坊主の姿をしたときだけ受けを狙ってるんだよ。
 と心の中でつぶやいた」・・・彼も私も根っからの受けが備わった大阪人。

 
所詮、坊主なんて天ぷら上げるみたいに衣だけだわ・・・ネットより

*雲水なんて居ないよ。
 広い世間を狭くしてせいぜい寺の行事で満足しているにすぎない
・・・ネットより

「仏壇も墓もただの象徴であって目を瞑って想いを馳せればそこに仏さんはおるんやで」と
 言ってたから別になくても罰当たりってことにはならんのやろ・・・ネットより

僧侶が先ず心に留めおくことは、"悟り"ではなく"救い"の道を庶民に教えてもらっている
 ことを忘れてはいけない。
 庶民を師として仰ぎ、共に菩薩道を歩むのが大乗の教えである。
 僧侶の悟りや小賢しい説法は荒んだ社会のなかで良識ある生活を営んでいる庶民の前では
 屁の値打ちも無い・・・友人の言葉


法要の際に経を唱えますが、いつも疑問に思うことがあります。
 経文すべてが意訳ならまだしもサンスクリットを音訳し漢字を充てた経文を更に日本語音で
 読むという事は、中国語と日本語の漢字の発音が全く異なることから元のものとはかけ離れた
 音を読んでいることになるのではないでしょうか?
 それはそれで良いのだと言えばそれまでですが、真剣に読む気がしません。
 どなたか良い解釈をお教えください。


 
そもそもサンスクリットの原典も仏陀の死後、弟子達がまとめたものだからなぁ・・・
 それがどこまで仏陀の言ったことに近いのかというと、疑問符がつくのですが。


 ちなみに「法要」はそもそも「真理の教えのエッセンス」という意味で葬式仏教の儀式とは
 関係無い言葉で、法要の本来の意味は、お釈迦さまの教え(仏法)を知る、
 つまり仏法の要点を知るという意味です。
 現在では、仏教に関する行事一般を指すようになりました。法事、仏事ともいいます。
 
以上、ネットより

*イスラム・キリスト教・仏教
 
私たちは神の意思によってこの時代、この場所に、こういう顔や才能で生まれた。
 全ては神が創造したものである。

 やがて死を迎えたなら最後の審判があり、神の御教えに背くことなく人生を終えた死者は
 復活する。
 

 
仏教は生まれたものが死ぬと同時に また生まれてそしてまた死ぬという輪廻転生を
 繰り返し因縁揃って一つのものが生まれ、しばらく留まって やがて死ぬ。
 死ねば無になるのではなく「空」になる。
 一切法は因縁より生じる成住壊空(じょうじゅうえくう)。
 仏教における死んだらどうなるは自らの業による悪因悪果善因善果をぬけだして仏に成る
 という道が仏教の究極であると教える・・・ネットより

悟りだの、戒律だの、戒名だのは、仏教の祖・お釈迦さまが亡くなられてからの
  後々の人たちが、屁理屈をこねて考え出したものにすぎません・・・ネットより

殺伐とした事件があとを絶ちません。
 その事件の要因の多くは心の病を「因」に帰すると言っていいでしょう。
 心の病を癒すところが寺であり、勇気づけ、間違った道に迷い込まないように
 心からの言葉がけをして、心からの言葉で諭すのが僧侶の務めです。
 その言葉を人たちは求め、その言葉に癒されて決して人の道から外れる行いはしないでしょう。
 人間関係に不満を持つ人の共通点は間違ったことに反論しないで正しいことに反論する。
  
・・・私のことば

ブッダの教え・・・
 ブッダの教えは単なる宗教ではありません。悩みを抱えている人が自分自身を見つめ、
 さまざまな苦しみを自身で克服していくための「自己鍛錬システムだ。
 
自分の人生をどのような物語に仕上げていくかの哲学。死後があるとすれば、
 そのことによって死後もきまり他の人はどうすることもできない。


*面白い言葉
・・・
 
新婚のときのあんたは天女、それから30年エンマさんだと思った、
 でも、10年後あなたは観音様だったと気づいた・・・


 
妻に「生まれ変わってまた巡り合えたら僕とまた一緒になる?」妻はしばらく考えて
 「今度、あなたが妻で私が夫なら一緒になってもいいよ」
・・・なるほど、鋭い妻の突っ込み。

妻との会話・・・
 「認知症を演じるのには気合一つやで」
 
「美人薄命のほうはやめたんか?」「うん、だいぶ前にやめてん。気合も何もあれへんから」
 
明るい認知症だから助かる。けど、このままでいけるかはわからない・・・

*善魔
 芥川賞作家、遠藤周作さんはたびたび悪魔ならぬ「善魔」(辞書にはない)という言葉を用いた。
 特徴は「自分以外の世界をみとめないこと」と「他人を裁くこと」だと遠藤さんは述べている。
 「自分の愛や善意の感情におぼれ、眼(め)がくらんで自己満足しているのだ」。
 日本社会では今、この善魔が跋扈(ばっこ)してはいないか・・・ネットより。
 
義務を果たさず、権利だけを主張する人が増えてきているのは確かだと思う。
 そうならないように導くのが寺・僧侶だろ?・・・友人の感想


*人間は私利私欲に結び付く欲望、願望があるがゆえに支離滅裂の生き物である。
 支離滅裂の私への言葉じゃないか。でも何かホッとした・・・
                   
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