おかげさん・5

      
 インドでの移動中に利用したトイレ 用を足した女性に紙を売るおばあちゃん 鈴とラッパを鳴らす乗合タクシー
*B6版・200頁のタイトル「葬儀を職としてしまった寺・僧侶」
 島原・天草の乱以後の寺・僧侶の姿勢を綴った本文ができました。
 主人公が幕府要人の命を受けて平戸へ向かい島原・天草の乱を通してオランダ商館長、
 天草初代代官との出会い。隠れキリシタンの娘との結婚等を綴り、全国の民間寺院が成立するのは、
 文亀から寛永年間(1501-1643)すなわち戦国末から近世初頭の1世紀半に成立し、
 ことに後半の天正から寛永年間(1573-1643)の約70年間に島原・天草の乱を機に集中して
 成立したこと。
 幕府の国民統制手段として強化された檀家制度・戒名によって、今日見るような死者を寺院が
 葬送儀礼を行い、遺体や遺骨埋葬して墓を造り、「家の先祖」を祭祀する死者供養の形態が
 庶民にも広まったのは16世紀以降であること他を綴りました。
 後は、前書きと後書きです。
 本・電子書籍にするかSDカードで親しい人に贈るかを決めたいです。
 
*数学好きの友人からの答え・・・
 
鎖国の起因、いわゆる葬式仏教の起因となった島原・天草の乱は過酷な年貢取り立てに対する
 キリシタン達の暴動であって、純粋にキリシタン弾圧に対抗する宗教や信仰を守ることとは
 見なされていないので、天草四郎以下の乱に巻き込まれた一般の農民でさえ、
 殉教者認定はされないないことと、日本仏教とキリスト教への批判も綴っているね。

 
像や他の動物、そして坂本龍馬・勝海舟が歩いた長崎街道、平戸からの天草・島原への
 海路と日数なども面白いよ。よく調べたね。
 それと、島原/天草 平戸/生月島 長崎/天草 生月島・黒瀬の辻へ足を運んだね。

友人からの答えに対してインターネット情報のおかげさまでだよ・・・
 インターネットでは形式的な僧侶の仏教観とは違う庶民の(勝れる)仏教観が溢れている。
 その
おかげさまで「清々しい「仏教」を知ることが出来、崇高な教えを享受出来ると感謝している。
 と、答えました。 

*仏教というのは死んでからのことではない・・・
 仏教というのは死んでからのことではなく、いつかは死ぬ人間がどう生きるかというところが
 課題である。人間にとって、この世界に生れて対処しなければならない最大の問題は、
 「生と死」であると考えます。
 「有生必有死」つまり、生が有れば必ず死が有ります。無論それは例外無く、即ち富人であれ、
 貴族であれ、高い地位であれ、或いは貧乏であれ、地位が低いであれ、男子であれ、或いは女子
 であっても、すべて同様にこの問題に直面しなければなりません。これが「生死」の事実です。
 私たちは、どのように如何に正しく「生死大事」を認識し、究明しなければならないのでしょうか。
 それについて『宝曼論』では「十善」を実行することが、「生死大事」を解決する基礎であると
 説いています。つまり、悪業を行えば、諸々悩みに通じ、従って悪道に堕ちる。
 善業を行えば諸々の安楽を成就することになり、生々世々ですべてが安楽となるということです。
 つまり、「十善」を執り行う者は、自にも他にも一切の功徳を与え、「十不善」を行う者は、
 自他両者に害悪を与えるのです。
 第一に死について考えるとき、「生」を如何に正しく認識するかという問題があります。
 人間として生れるのは難しいことです。たとえば『阿含経』の中に盲亀浮木の譬えがあります。
 百年に一度水の上に出てくる目の見えない亀に偶然木が当たるという説話です。
 それくらい難しいことです。
 仏教の基本の教えは、「三世因果」を説いています。だから私たちも人間として生まれ、
 この業によって生きています。
 業によって生きているということは、必ずいいことを行ったからこの体をいただいていると
 思うんです。だから、私たちの先世が行ったことを、これを 感謝しなきゃならない。
 そして、今世でも仏教の法などを聞いて、また、いい先生に出会って、いい法に出会って、
 いい仲間に出会って、これを大事にしなければなりません。
 つまり 
「一日不作,一日不食,一日一善,日日是好日。」です。このような正しい生活の心を持ち、
 徳を積み善を行い、国土と衆生に対し報恩感謝の気持ち行動を為して毎日を過ごすのです。
 第二は、如何に正確に「死」について認識するかということです。
 周知のように「生老病死」は、自然の法則であり、苦を離れ楽を獲得して成仏する以前には、
 誰もが避けることができない苦としての「生老病死」の事実があります。
 「死」について、ツォンカパ大師が著した『ラマリム(菩提道次第廣論)』に、
 次のように説かれています。
 「死神」がやって来る時に、親戚であれ友達であれ、親しい仲間であれ、大きな財宝であれ、
 死ぬ際に、俱生としている身体にとって何の役にも立たないのが事実であると。
 しかし「仏法」だけは、死者にとって唯一の役立つものであると説かれています。
 これを「法宝」と言います。 
 ですから死に往くときには、煩悩障と所知障を取り除くことが大切です・・・ネットより
 
誰でも死ぬのは怖いし死ぬのは嫌です。しかし、自分も死ぬ存在・無常の風は自分にも吹いている。
 それを受け入れる心構えを説くのが僧侶の勤めです。
 死後を説くのが勤めではありません。

働けるおかげさんで食することができる・・・禅の戒めと聖書の戒めの違い

一日不作,一日不食。(一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず)
 「今日、私は為すべきことをしなかったので食事をいただく資格がありません」
 自分で決めたことです。あくまで今、ここ、自分の問題で一日を空しく過してはならない。
 ・・・ 古代中国の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉。

 *「働かざる者は 食うべからず」・・・新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節。
  「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」→神が説かれた罰則。


 *「この子がいるお陰で」・・・知恵おくれのお子さんをもつお母さんのことば
  「私はこの子のいるお陰で人生というものを人一倍学ばせていただきました。
  その点、私にとってこの子は命の恩人です」
 
 
  某寺に勤めていた朝の行き道の橋上で障害をもつ女の子を連れて散歩がてらの運動を
  している母娘に出会い、いつからか「おはよう」と声掛けすると小学生の女の子が笑顔で
  バイバイをしてくれるようになり、お母さんも会釈されるようになった。
  ある日、いつも橋の上り口に止めてあった自転車が橋の真ん中辺りに止められて消防車と
  パトカーが目に入った。もしやと思って近づくと潜水姿の救急隊員が捜索していた。
  そして「母親は救助。子供は不明」の無線応答が聞こえた。
  もし、お母さんと話す機会があったなら・・・でも過ぎ去ったことと諦めるしかなかった。


 
自分の至らさなを自覚し、すべてのものに感謝の心(おかげさま)を投げかけることの出来る
  人に
なれることが残された人生の主眼とすること・・・ネット

 *「もし人ありて反報(はんぽう)を知る者は この人はうやまうべし」
   反報とは恩を知り、その恩返しをすることを意味し、そうした人こそ尊敬に値する。
   人ありて我あり。人さまの
おかげで自分があることを忘れてはいけません。


 
今なさざれば、なす時いつぞ、君なさざれば、なす人ぞ誰、今なすべきなり、君なすべきなり、
   時はいく、人もまた行く
・・・加入実績№1を射止めた女性の言葉
   正に、ブッダの教え「今(いま) 此処(ここ) 我(われ)」の言葉です
   
             このHpは31インチディスプレイで作成しています。
                   
                次回は 先人・偉人・賢き人の言葉 です。