長崎(出島)・天草(富岡)を訪ねて

長崎・平戸・生月島・島原・天草は徳川幕府による鎖国の起因、葬式仏教と揶揄される起因となった
日本歴史上での重要な地域です。273242ページ参照。

2020年9月/島原・天草(本渡)2021年3月/平戸・生月島を訪ね、今回2022年5月9日から10日に
かけて、長崎出島・長崎奉行所跡と天草の富岡城に行ってきました。
       
  朝6:25分新大阪を出発して9:19分新鳥栖着。
新鳥栖駅は2015年5月7日〜5月18日まで、
「Jr全車両グリーン車によるフルムーン・キャンペーン」
利用して、北海道・宗谷岬から鹿児島・指宿までの
12日間・列車の旅で、諫早からバスで小浜温泉へ行くときに
利用した在来線乗り換え駅です。

9:43新鳥栖発かもめ11号で長崎に11:23着。タクシーで出島へ。
出島は来舶ポルトガル人を居住させるために海中を埋築し、寛永13年(1636)完成した。
寛永14年島原の乱のあと同16年(1639)幕府はポルトガル人を渡航禁止にしたあと、
寛永18年(1641)平戸のオランダ商館をここに移した。
以来、安政の開国まで約220年間、出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)とも呼ばれた。
ネットで出島の写真を見てください。

 
    出島・表門へ
 
      出島全体図
 
  左・カピタン(商館長)部屋。
  正面奥に水門が見える

商館長の2階の奥には大広間があり、日本の役人や大名たちの接待部屋としても使われた。
写真のテーブルにはクリスマスの祝宴風景が再現されている。尚、クリスマスを阿蘭陀冬至と表された。

 
  カピタン部屋大広間案内

 案内係と記念写真 
 
     大広間テーブル

 
船荷の積み下ろし口・水門前にて。
 
       製錬跡
 
   オランダ石門奥の食堂

 
       食堂内部
 
  オランダ風・お子様ランチ
 
   出島全体のミニ模型

              この後、長崎歴史文化博物館の見物です。
 
   長崎奉行所再現模型
 
    奉行・検閲人控室
 
    渡来品再現

 
    お白州の説明図
   
 お白州(ネットで見て下さい)    博物館の坂本龍馬像 

この後、長崎駅南口からバスで30分程の茂木港へ。
 
    富岡港行き桟橋

 
     乗客は私一人。

翌日8時過ぎからタクシーで千人塚から富岡城へ。
島原天草の乱のあと10年後(正保4年・1647)に、天草初代・代官鈴木重成の怨親平等精神によって
供養碑が建てられた。地元の人々から首塚、又は千人塚と呼ばれている。

0(オー)脚になってきたなぁ。
 このあと富岡城へ。
 
 タクシー下車のあと本丸跡へ
     三の丸跡。一揆軍はここまで攻め
 落として二の丸へ。  


二の丸への石段。一揆軍は
二の丸も落として本丸へ。
 
 本丸への城門一揆軍が本丸
 に攻め入る直前に唐津藩他の
 援軍の攻勢を受け敗走する。
 
  手前・勝海舟と頼山陽。
  奥・鈴木重成と鈴木正三。

      本丸からの眺め   苓北町逆瀬川にある天草四郎率いる一揆軍が島原へ渡った記念碑。
 
 記念碑前から長崎方面を見る。

富岡港を出て、茂木港から長崎駅へ。
 
     富岡港出港。
 
  航行中の動画は迫力あり。
 
 船上から富岡城を眺め茂木港へ。

22時過ぎ家に着くと、妻が認知症になってからの口癖「どこ行っとたん?」と「へぇー」で出迎え。
妻「どこ行っとたん?」
私「長崎と天草や。テーブルの上のメモに書いてるやろ。幸子来てくれとったやろ?」妻「へぇー」。
そのあと、娘に「無事帰ってきた」のメール送信。
娘「お帰り。お母さんと食事に行った写真送ったけど、お母さんは食事のことは覚えていない。
お父さん居なかったら寂しい?と聞くと、寂しない!そのあと、お父さんどこ行ったの?
何やすぐ帰って来るの!の繰り返しだったよ」
物忘れは進んで来ているが、元気なので今のところ安心かな。

                  
次回はつれづれメモです。

                    
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