つれづれメモ(徒然なるままのメモ書きです
ネット、新聞、庶民の会話等に綴られている言葉を何気なく、気の向くままにメモ書きしたのをUPして、
自分なりの言葉も添えていきます。

「初めに言ありき、言は神とともにあり、言は神なりき」・・・新約聖書・ヨハネの福音書第1章第1節・
言葉は神であり、生命の光であり、人類の光であり、すべてのものが言葉によって成り立っているのです。
日本でも言葉そのものに宿る霊力の働きを「言霊(ことだま)」としてとらえ、自然界即ち宇宙の響きである
波動を言葉として翻訳されたものが「祝詞(のりと)」です。
日本では古代より「祝詞」の一音一音に宿っている不思議な力が、言葉どおりの願いを叶えてくれると
信じられてきました。

神であり、真実である「言葉」の使い方ひとつで他の人に、慈しみ・励ましを与えることができ、
その反面、憎しみ・心の痛みを与えることにもなるのです。
だから、話すときの言葉は正にその人の生まれつきの人柄
「為人(ひととなり」なのです。


「お母さん、何を手を合わせているの?私はお母さんの子供だよ。あたりまえのことをしているだけだよ」

「話すときには相手がいる 喧嘩するには相手がいる 笑うときにも相手がいる 
生きてゆくにも相手がいる
 動物も植物も相手になってくれる だから相手を傷つけてはいけない」

「足るを知る 足るは富なり」 「気持ちに折り合いをつける」

「人生打率3割で充分。あとの7割は、マァ良かったかな・少しマズかったなぁ。で、いいのでは?」

「義理を欠く 人情を欠く 恥をかく」の
三かくとはすなわち下品である。

「人生の目的”人生最大のリスクとはやりたいことがやれないリスクです」

「人より出たる仏教が如何に悲惨なる径路を辿つて崩壌の路を急いだか、又人智に依つて作られたる
経典が如何に乱雑を極めたるかは想像に絶するものがあります」

・・・宗教とは所詮人間の創り出したるもの。


「道徳は”人生の目的を果たすための手段”宗教はそれ自身”人生の目的”
人間は何かに依存しないといきていけないゆえ恐怖で宗教に走るのもわかる。
死ぬのも怖いけど永遠に生きるのもそれはそれで怖い」

『当たってくだけろ』 かけ声は勇ましいけど かけ声をかける人は 当たりもくだけもしねんだよなぁ 
・・・相田みつを

*親鸞が九歳の時、仏門に入ることを決意したとき天台座主・慈円を訪ねましたが、
今日はすでに夜がふけておるゆえ明日の朝に得度式をしてあげましょう」と言われました。
しかし、親鸞は自分の命を桜に喩え
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と慈円に思いの丈を伝えました。
この世の全ては諸行無常であるがゆえ、明日自分の命さえあるかはわかりませぬ。
だからこそ仏門にこの心身を入らしめて今を精一杯に生きてゆきたい。との思いだったのでしょう。

「臨終即往生」・・・浄土真宗の教えでは「臨終即往生」を説く。
その意は浄土真宗の門徒(もんと)=檀家は亡くなるとすぐにすぐに
極楽浄土に行って仏様になるので、他教のように「冥福を祈る」
「死出の旅路につく」という概念はないはずです。
親鸞は、全ての人々がこの世での生を終えたら皆、すぐさま極楽浄土に迎えられ仏となれるという
弥陀の絶対他力(他力本願)を信じ、生き切ることを悟った→信心決定。

「私が私であるちに安楽死をほどこしてください」・・・スイスで安楽死をした女性の言葉。
彼女がこの言葉を告げたときは神経の難病で歩くことが困難になり、すでに呂律が
まわっていない状態でした。

私は常々、安楽死の選択を認めることをお話ししている。
何故なら、生まれてくるときは、すべてのことを選択できない。
だから、せめて、自分の意思で死を選択することを排除してはいけない。
寺・僧侶は葬式のことよりも、このことを説かなくてはいけないとと思う。間違いだろうか?

得道(とくどう)のことは心をもって得(う)るか 身をもって得るか・・・道元
仏道は心で覚えるのか 身体で覚えるのか・・・ 身をもって覚える 体で了解する。
表面的な字づらを理解するばかりではなく なにごとも実行に移し体得してこそ重みが生まれる。

「山の行より里の行」という言葉があります。僧侶の心得として、自分だけのチッポケな悟りに
酔ってはいけません。僧侶の悟りなんて庶民の悟りの足元にも及びません。

人に敬意を抱いて生きていけばよい・・・人さまのおかげで活かされているのです。

日本は大乗仏教です。その教えの目指すべき理想は自分の悟りを求めつつ、他の人々に慈しみを
もって奉仕することです。

教義としてやっちゃだめだよって説いてるくせに破りまくっている僧侶もいるってこと。
そういう僧侶は「自分は賢く庶民は愚かだ」と思い込んでいる。


日本の僧侶の場合は、職業として考えてもいいです。その日の仕事が終われば普段着に着替え、
ビールを飲んだり、テレビを見たり、一般の普通の生活ができる。
毎月給料が支払われることについては、ふつうのサラリーマンと変わらない
・・・ネットより

大勢の人といる葛藤の中のほうが、人間を磨いてくれる。人の魂は磨けば磨くほどきれいになります。
苦しいことも嫌なことも、楽しみながら生きていきましょう。
人は強くもあり、もろくもあるのです。
それを納得できる心を培うには、「いい塩梅(あんばい)」の自分なりの哲学をもつことでは?

                   次回は その2 です

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