〈己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり〉
この言葉は伝教大師・最澄の『山家学生式』に記されたもので、
大乗仏教の基本精神を表しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天草復興のために天草初代官として任命された鈴木重成と兄、鈴木正三(しょうさん)。
通称の正三(まさみつ)を音読して正三(しょうさん)と名乗ることにした。
この二人のことは 33・鈴木重成・鈴木正三・小まん。何でもメモ②で
取り上げましたが今一度記し、忘己利他を実践し天草復興と人々に心の安らぎを
与えた兄弟を綴ります。
この兄弟のことは、島原・天草の乱、檀家制度を調べている中で知りました。
「天草の初代官と任命された重成は故郷足助の十王同から、脇侍に観世音菩薩と
勢至菩薩を従えた阿弥陀如来三尊と、二十三体の奏楽の菩薩像を持ち運び天草へ渡り、
一揆で荒れすさんだ農地回復に取り組みましたが、天草の公式の石高が四万二千石の
ままでは、農民の重税圧迫を和らげることはできません。
そこで、重成は詳細な検地を行い、天草の石高半減を強く老中の松平信綱に訴えます。
が、幕府にも威信がありますから、簡単に承諾する訳にはいきません。
幕府に立てつくことは切腹ものであるが重成は命を賭して、農民の暮らしが良き方向へ
向かうことを願い石高半減を訴え続けたが承応二年(1653)十月十五日、
その訴えの建白書を残して江戸駿河台の自邸で亡くなる。
願いを叶えていただきたいの一念から自害したとも伝えられている。
重成の訴えは甥の重辰が引き継ぎ石高半減の訴えを繰り返し行い、
万治2年(1659)6月、重辰による全島検地の上、村高2万1千石に評価替えされた。
そして、重成の七回忌の年に老中・松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が
下されました。近代史の大家 朝尾直弘氏は重成を評して
「農民のために死を賭す武士が現れたのである」と言い切った。
兄、正三は三河武士であったが常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降、
仏教に傾倒し、職務の間を縫って、諸寺院に参詣した中で正三は生きようともがき
苦しむ人間を見て、死後の世界のみを問題にする救いには疑問をもち、人々に今を切に
生きることが安心立命の境地に至れる。
それこそが真の人間救済であるとういう信念を持ち続け、42歳で遁世し出家してしまい
ました。
旗本の出家は禁止されていたが、主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済みました。
[世を捨てなかった世捨て人]
正三の出家とは、ただ武士という身分を捨てただけで、人間社会のありようの関心は
終生変わることなく持ち続け、禅は曹洞も臨済も、それに念仏宗も律宗も学び、
果たして仏教とは如何なるものかを究めながらも正三の最大の関心事は弟重成と同じく
「民の暮らし」であったのではないだろうか。
寛永19年(1642)9月に弟重成の要請を受け天草に入りました。
正三は折々に山を下り、托鉢と説法も行ったが里の人々の暮らしのさまを直に見、
言葉を交わす中でハッとする瞬間が何度でもあったのではないか。
たとえば、田夫が田畑で稲や野菜を育てる仕事と、自分が禅堂でしている作務との間に、
何か本質的な違いがあるか・・・といったような。
自分の作務が仏道修行なら、彼の一鍬一鍬も菩薩行ではないか。
の想いを抱くようになり次第に隠遁的思考の仏教に否定的になってゆきました。
そして出家希望者が訪ねてきたときには「山林にこもって独り悟りを得ようとすること
だけが仏教ではなく、現実の社会生活の中で今の仕事に精励することこそ大事であって、
そのことが正に仏道を実践することにほかならない」と諭し出家を思い止(と)まらせた。
そのような中で、ある職人が
「極楽往生を願って仏道修行に励めと言われても、わしらは身過ぎ世過ぎの家業に
追われるばかりで信心の為の暇などありません。どうしたらよいでしょう」と
問いかけた。
答えて正三は「何れの事業も皆仏行なり。人人の所作の上に於いて成仏したまふべし
[人それぞれのなりわいの中に仏道への機縁があるのだ]
仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆似て世界のためとなる事を知るべし。
仏体を受け仏性そなはりたる人間、心得悪しくして好み悪道に入る事なかれ。
本覚真如の一仏、百億分身して世界を利益したまふなり。
鍛冶番匠(大工)をはじめて諸職人なくしては世界の用所、調ふべからず。
武士なくして世治まるべからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして
世界の自由[=物流]成るべからず。此の外所有事業出で来て世のためとなる」と。
このような考えでもって武士、農人、商人それぞれの職分を説いていきました。
このことから正三は,職業倫理を日本で初めて説いた禅僧だと言われている。
宗教,禅,念仏にとらわれずに、おのおのの職業に、世のため人のためとの念をこめ、
一心に打ち込むことそれ自体が仏道修行であり、己を十全(じゅうぜん・妨げることなく)
に生かすみちである。
というように、衆生のための仏法を説いて衆生を導く情熱が正三を出家に駆り立てた、
それが自分の天職であると見定めたのです。
正三は宗派の壁をのりこえて「布教勝手たるべし」と教えの自由を保障してしたうえで
キリシタンによって破壊された寺社の復興に努め、教え、修行の違いはあれど、
その根本は我が身を思う一念をすて、民百姓あっての我が身と知るべし。
民百姓の働きは即ち菩薩行。と説き聞かせ、
僧侶の菩薩行は即ち民百姓の苦を抜き楽を与える〈抜苦与楽〉に是あり」と自分に説き
聞かせ、神社2社と、曹洞宗12・浄土宗9・真言宗1の計20ケ寺を再建あるいは
創建していった。
また、一揆によって犠牲となったキリシタンの供養も行っていったのでした。
重成、正三の仏教徒とキリシタンへの供養は宗教の相違を超えてのものであり、
怨親平等の精神に基づくものである。
二人の努力によって、朝には、鎮守の森から太鼓の音が響き、
夕べにはお寺の梵鐘が聞こえる。
日本の原風景に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻したのです。
重成の功績を讃えた鈴木明神の碑文に、越後の学者魚沼(うおぬま)国器(こっき)の
撰文による次の文が記されている。
「是(ここ)に於いて〈重成は〉税斂(ぜいれん=税の徴収〉を薄くし、
繇役(ようやく=国家が人民に課した労役)を減らし、
刑罰を省き〈その上で〉科篠(かじょう=法令)を厳にす。務めは民を利するに在り」
この碑文は、重成の農民への深い温情あふれる言葉でしょう」
以上「田口孝雄著・天草島原一揆後を治めた代官 鈴木重成」 参考。
このように二人は共に旗本ではあるが「忘己利他」を実践して天草の復興と人々の心の
癒しに全力を尽くしたのです。
道元禅師は、「仏道は心で覚えるのか、身体で覚えるのか」ということにたいして、
「身をもって得る、体で了解する」と断言しておられる。
表面的な字づらを理解するばかりでなく、大乗仏教の根本教理である「利他行」を
実行することが僧侶たる者の姿である・・・ネットより。
得意げに字面(じづら)をならべて薄学を垂れる坊主には「忘己利他」は実行できまい。
実践の伴わない僧侶なんて、何の役にもたたない・・・私には痛い、知人の言葉。
次回は皆さんも菩薩だよです
ページのご案内
|