ようこそ一峯庵へ
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小説 島原・天草の乱がもたらしたもの https://tenroku4649zpgo.jimdofree.com

      
     
   
 2000年12月、高野山へ上がるのを機に彫刻した
 檜作り、総高・60pの地蔵菩薩像。
 小学校の同窓生がこれを模した像を、石仏店に依頼して
 故郷・愛媛県の峠道に祠を建て、その中に飾ってくれました。 
 わざわざ車で来てくれて案内してもらった。
 村の方たちが手を合わせて行かれるとのことです。
 ありがたいです。
  

 この刻字は妻の作品です。
(縦30・幅10・厚さ・3p

自宅の3階自室入口横に妻が彫ってくれた表札?を吊り下げ、*寺に入らず好き勝手な*本来の仏教
綴っていきます。思い付きのままパソコンに向かい文章を綴るときが多々あるので、前後バラバラ、
誤字もあり、重複しているページもあり・・・ほとんど独学での作成なので。
そして、いまひとつの文章構成ですが、「本来の仏教」を私なりの言葉と、ネット、新聞、雑誌などを
参考にして綴っていきます。
このホームページを見て頂いた皆様が少しでも、
「あぁ、こういうことを言いたいのだな」と理解していただければありがたいです。
          高野山真言宗・坂本 大漸(さかもとたいぜん)

各ページに追加、訂正があれば更新したいと思っています。


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何故、寺に入らぬか・・・
趣味の仏像彫刻をキッカケに「仏教とは?」に興味を持ち、2001年・50歳半ばから2年間
片道3時間をかけ高野山大学に通い、山内の寺で茶坊主?を経験させてもらい、
その間に加行などを経て僧籍を授かりました。
そのあと高野山を下り、某寺で4年ほど檀家さんのお参りもさせていただきましたが、
崇高でシンプルな教えである釈迦仏教=本来の仏教に魅かれる私には、そこに説かれていない
死後の行事を職業にすることがシックリしませんでした。
このような心がけでお参りすることは檀家さんに失礼にあたると思い、給料値上げを口実にして
寺を出ました。
何人かの方から「直接、お参りに来てください」というあたたかい言葉を頂きましたが、
お礼を述べて辞退しました。

寺を出た私を葬儀・死後の行事に呼んでいただいたときは僧侶としてだけでは無く、
私と縁を結んでいただいた方たちに「感謝」の念を抱き赴かわせていただいています。
そして、このような私に高額なお布施を含めていただいたお礼の全額、または一部を地方自治体、
あるいは信頼於けるNPOに寄付させていただいております。

毎月、活動内容や動画。そして子供たちからのメッセージを楽しみにしています。

僧籍・・高野山真言宗での私の僧籍は「中僧都」だそうです。僧籍を得て3年たてば申請だけで
「権大僧都」に昇進することが出来たと記憶していますが間違いであればご指摘ください、訂正します。
いずれにしても、僧籍なんてものは私にとっては意味がないので無視。
僧侶に世俗社会の階級など不要と思います。また、
僧籍を得たといっても・・・

お大師さま(空海)の言葉
「頭を剃って欲を剃らず 衣を染めて心を染めず」
「知らじ知らじ われも知らじ 思ひ思ひ 思ふとも 聖(しょう)も心(し)ることなけん」
(姿だけが坊主頭と法衣の僧侶は、偉くもないのに知ったかぶりをしてはいけない)

覚鑁上人の密厳院発露懺悔文
(みつごんいんほつろさんげのもん)にある
「意
(こころ)に任せて放逸(ほういつ)にして戒(かい)を持(じ)せず」

相田みつおさん
「うそはいわない 人にこびない 人のかげぐちはいわぬ わたしにできぬことばかり」

そして、福沢諭吉翁の言われた
「坊主とは 俗より出でて 俗よりも 俗なる者・・・以上の言葉どおりの私です。

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2011年11月から1年半の間、和綴じ製作でのご縁で「びわ湖湖畔のびわ湖大津館」を
紹介していただき、毎月第一・第三月曜日の午前十時より正午まで、収容10名程の会議室
利用することになりました。
紹介して下さった方が大津在住だったので、会議室利用料は2時間で630円。
もちろん参加費は無料でした。

会議室の扉に
「ブッダの言葉に触れてみませんか」のパネルを吊り下げたところ、約1年半の間に
延べ400数名の方と共に「死後に重きを置く日本仏教」とは違ったシンプルで崇高なブッダの教えを
楽しませていただきました。そのお話し会に参加されたお二人から
「あなたが以前掲載していたホームページの<原点に戻る大切さ>の中で、仏教もその一つでは?
ということを書かれていました。私も本来の仏教とは?を自分なりに調べ、問いかけてみると
死後の行事に翻弄されている日本仏教の可笑しさ、哀しさが
少しわかる気がしました。
また、日本人はあまりにも寺・僧侶を美化しているのでは?と思っていました。
でも、あなたのホームページは私の問いかけにキチンと答えておられます。
もちろん、賛否はあるでしょうが私はあなたの応える姿勢を応援しています」


「あなたのHPは子供たちに伝えたい「送り、送られる儀式」の参考になりました。
また、あなたの日本仏教への問いかけを家族・友人・知人たちに紹介しています。
再度、UPされては?」
との言葉を頂きUPすることにしました。

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では、今回で再々UPになりますが、先ず私の想う「仏教とは」から入っていきましょう。
仏教とは・・・陀=ブッダ」となられたお釈迦さまの説かれたえのことで、その教えを享受し、
教えに沿った生き方を心がけ、実践する人を 教徒=お釈迦さまの弟子と言います。
各宗派の開祖は勿論のこと、その宗派に属する僧侶、お仏壇を置かれている、または置こうとされる
壇信徒、そして仏教を名乗る教団とその教祖および信者のすべてがお釈迦さまの弟子・仏教徒で
あることを忘れないで下さい。
お寺に行ってお布施をあげる。だけでは仏教徒ではありません。


仏陀=ブッダ・・・真理に目覚めた人・覚者。最高の人格を自らの努力により成しえた人。
 お釈迦さまはブッダ・釈尊などいくつかの名で呼ばれています。
 釈尊とは釈迦族(シャーキャー族)の牟尼(ムニ=インドの言葉で聖者の意味)であり、
 世尊(この世で最も尊い人)であるという意味の釈迦牟尼世尊の略称です。


僧侶は本来の教えを自分の言葉で説き広めるのが責務であり、他の人々と共にお釈迦さまの
説かれたことを実践していかなければならない。
対価を求め、ダラダラと死後の行事を説く姿は真の僧侶ではありません。

 「与えて求めざるを施という」
・・・僧侶たる者はこの言葉を胸に刻むこと。
お釈迦さまの教えを施すという僧侶の修行の「法施
(ほうせ)」と「無畏施
(むいせ)
という「布施行」を実践し、
お布施と称する金品や、戒名にランク付けして金銭を受け取ることは布施行に非ず。


          *お釈迦さまの説かれた教え=本来の仏教・・
「本来の仏教」という定義付けは出来ないし、何をもって「本来の仏教」というカテゴリーに
入るのかは断定できません。
私が言うところの「本来の仏教」とは[諸行無常」という絶対真理を理解することと、
この世のすべては「縁起によってなりたっている」という絶対真理を見通す力を自分自身で
形成しなさい。という教えです。

葬儀や死後の行事に重きを置かないのが、私の言うところの「本来の仏教」です。

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 「今(いま)此処(ここ)我(われ)」をあなたの主である あなた自身の心をよく整え、
 如何に活かし・生きていくかを導く教え」です。

 決して、葬式・死後の行事が仏教本来の教えではありません。

「本来の仏教」は、死に至るまでの人としての歩みを、自問自答して行く上に於ける道しるべであり、             死後のことには重きを置きません。
死後の世界はあっても、なくても良いような生き方すればよい。
あるとすれば生前に悪しきことを重ねると地獄へ、善きことを重ねると心安かな処へ赴く
「悪因悪果・善因善果」です。
これを説いているのが本来の仏教で、説き広めるのが僧侶に課せられた役目です。


「本来の仏教」は、人は必ず死ぬ。だからこそ命ある今を切に(一生懸命に)活かし、生きよ。
と説いているのです。

「本来の仏教」、頑なに現世利益を否定しません。執着することなかれ。と説いています。
私たちは常に、大なり小なりの悩みを抱えている。
そのとき、それに囚われるのではなく、少し考えを変えなさい。と教えています。

一切は心より転ず・・・人生は諦めてはいけない。人生は自分の心がけ次第で変えることができる。
  だから人生は素晴らしいというのがお釈迦さまの本来の教えである。


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     姿だけの僧侶に仏教を見るのではなく、皆さん自身で本来の仏教を観てください。

日本の多くの人は仏教本来の教え(みる)のではなく、葬儀・法事での僧侶の姿に
仏教をているのでは?

ネットで「観」を検索すると次のことばがありました。
「観」も「見」も、ともに“みる”と読みます。一般に、「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの
意味であり、表面的で常識的な見方をいい、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味・・・

と説明されています。

私たちはとかく「見の目」によって、人の社会的地位であり、生まれであり、財産であり、持ち物であり、
あるいは好ましい容姿などの外面的な姿を見て、自他を比較し、ある時には優越感にひたり、
またある時には劣等感にさいなまれます。優越感と劣等感のはざまを振り子のように揺れ動くのが、
私たちの日常的な意識のありようでしょう。

仏教での「観」は、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透(みとお)す智慧の
はたらきをいいます。
人間の外面的な諸条件を超えて、人の心の奥底に隠されてある宝物(仏心・仏法)を見透すのが
「観の目」であり、智慧のはたらきです。
*その宝物は遙か遠くにあるのではなく、良く整えた心の中にすでに存在するのです。
  葬式・観光・祈祷に代表される日本仏教を覚めた心で観てください。
  そして本来の寺・僧侶の在り方を問いかけてみましょう。
  そうすると、それらに距離をおいた澄んだ釈迦仏教に気づかれるでしょう。

 
   苦行によって得るものなし・・・釈迦
夫れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し  空海
地獄・仏は我らが五尺の身の内にありて候 日蓮
仏道をならうというは自己をならうなり。
  自己をならうというは仏道をならうなり

自己をならうというは自己をわするるなり。
自己をわするるというは万法に証せらるるなり
 道元
      仏道は手のとどかない処にあるのではなく。私たちの心・手の内にある  

 
*素晴らしい言葉です。僧侶たる者が先ず心にとどめおかなくてはいけない各宗祖の遺訓です。

あなたこそ あなたの主(あるじです 他の人がどうして 
   あなたの主であろう  よくととのえた あなたこそ 
まこと得がたき 寄る辺をぞ得ん
 
ダンマパダ・・・(一六〇番)
           *
良く整えた心の主(あるじ)、それはあなた自身です。

この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、
法を島とし法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ

                                       ・・・中村元訳「ブッダ最後の旅」

自分が自分にならないで 誰が 自分になる・・・相田みつお

妻や子が側でなげくもきき入れず
 死んでゆく身に何の引導
・・・一休さんと親交のあった蜷川新右衛門
私は戒名を依頼されたときは「仏道に入る名ではなく、その人が如何に家族を想い、
人生を過されたかの証としての名前」としてつけさせていただいています。

葬儀を依頼していただいたときは
「親戚・友人・知人としてのご縁に心から感謝して」葬儀に赴かせていただいおります。
死んでから仏道に入る意味など無い。

死んでから善き人になれとは要らぬこと 
       生きてるうちに成るがよかろう
・・・一休さん

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欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、矛盾だらけの自分を探求し、
その自分を自分自身で出来る限り解き放してこそ自由になれる。
ということを
知るのが仏道である(私訳)


「学道の人は吾我(ごが)の為に仏法を学することなかれ。只(ただ)仏法の為に仏法を学すべきなり。
其の故実
(こじつ)は我が身心を一物(いちもつ)ものこさず放下(ほうげ)して仏法の大海に
回向すべきなり」
・・・道元
     片山一良著・ダンマパダより

仏法を学ぶ者の第一の心がけは、自分に対する執着「吾我」を捨て去ることである。
つまらぬ僧籍や薄学に執着せず、それを捨て去れば仏法(真理=本当のこと)の大海原で悠々とできる
            良く整えた心を培うには先ず、執着を捨てることです・・・(私訳)。


「知者は学問を軽蔑し、愚者は学問を崇拝する。識者は学問を活用する」・・・フランシス・ベーコン

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ホームページ内で、ダンマ パダと記しているのは、お釈迦さまの言葉に最も近い経典の一つです。
ダンマパダとは、ダンマ(真理)パダ(言葉)=「真理の言葉」と呼ばれる経典で法句経ともいわれる。
みなさんも是非、東洋のバイブルと評されるシンプルで崇高なポエムにも似た経典に触れてください。


                    次回は、仏教の祖・お釈迦さま

                         
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