バラモン=僧侶
今回はダンマパダ(法句経)の中から、ブッダの説くところの僧侶=バラモンの姿とは。
を綴ることにしました。

ダンマパダ(法句経)とはブッダの言葉を編集したもので、おそらく紀元前三世紀ごろまず北インドで
編集に取りかかり、紀元前一世紀ごろにスリランカで初めて文字に残されたブッダの言葉に最も近いと
いわれる経典の一つです。
ヨーロッパでも古くから、東方のバイブルとして讃えられ、親しまれてきました。
全423からなるポエムのような言葉は、私たちを如何に活かし・生きるかの道しるべでは。と思います。

私は、片山一良・著「ダンマパダ・仏祖に学ぶひとすじの道」。高瀬広居・著「法句経からのメッセージ」
友松圓諦・著「法句経からの世界・生きてるよろこび」
中村元・著「ブッダの真理のことば・感興のことば」
トーマス・バイロン・著「ブッダの語る、覚醒への光の道」を愛読しています。

今回はブッダの十大弟子の一人である阿難(アーナンダ)との間で交わされた真実の仏法を解説する中で、
曹洞宗開祖・道元から弟子の懐奘へと伝えられた『正法眼蔵随聞記』の記述を各偈に併記されている
片山一良・著「ダンマパダ・仏祖に学ぶひとすじの道」の中からバラモンについてのいくつかを記します。

バラモン・・・古代インド社会で形成されていた4種の階層の最高位であり、祭司・僧侶を言い、
  世襲である。それに対し、バラモン以外の出家者を沙門という。
ブッダはこの4種の階層(カースト)で形作られた社会の中に生きられたが、
バラモンと彼らが説くところのバラモン教に異を唱えられた一沙門です。

赤文字はダンマパダ、黒文字は私の感想、青文字は道元の言葉です。

     除悪の者ゆえ「バラモン」と 寂静の行ゆえ「沙門(しゃもん・さもん)」と言われる
             自己の垢を追い出す者は それゆえ「出家」と言われる
・・・388句

  諸々の邪心から解き放された者をバラモンという。こころ清く澄みわたり、
  すべての欲から立ち去った者を沙門という。
  それゆえ、貪(とん)=むさぼり・瞋(じん)=怒り狂う・痴(ち)=正しいことを理解できない。
  の三垢(さんく。三毒ともいわれる)を追い出した者を出家者という。

  仏の一期(いちごの行儀(ぎょうぎ)を見れば、 王位を捨てて山林(せんりん)に入り、上道の後も
     一期乞食
(いちごこつじき)すと見へたり。律に伝く、知家非家捨家(ちけひけしゃけ)と伝伝

   真のバラモン、真の沙門は、無一文、無執着の者であり、その姿は、すでに仏のうちにある。
       曹洞宗の僧侶で妻帯を正当化する者がおれば、家族に無執着でおれるの?
     

     流れを断ち切れ、勇敢に 諸欲を除け バラモンよ
           諸行の滅を知るならば 不作(ふさ)の知者なり バラモンよ
・・・383句

   渇愛の流れを断ち切れ。勇敢であれ。諸々の欲望から立ち去れ、バラモンよ。
   諸々の消滅(諸行無常)を知るならば、諸々の贅沢なる物品によっても、
   金銭によっても作られない、ニルヴァーナ(涅槃)を知り得る者となれ。

         学道の人は後日をまちて行道(ぎょうどう)せんと思ふことなかれ。
    ただただ今日今時(こんにちこんじ)をすごさずして日日時時
(にちにちじじ)を勤むべきなり

   学道とは仏道を実践することであり、行道とは仏道を修行することです。
 それゆえに、仏道を実践しようとする人は、今日しなければならないことを後日に延ばしてはいけない。
 渇愛の流れを断ち切り、諸々の欲望から立ち去り、今日この日、今この時を
 大切にして勤めなければならない。


     結髪(けっぱつ)によっても 姓によっても 生まれによってもバラモンならず
          真理と法をそなえるならば かれは楽あり、バラモンとなる
・・・393句

 殻が渦巻き状に巻いている貝類のような螺髪(らほつ)を結んだとしても、姓によっても、
生まれによっても、バラモンにあらず。真理と人間としての生き方を悟った者をバラモンという。

  亦寔(まこと)の賢人(けんにん)は名をかくす。俸禄(ほうろく)なればしようするよしを云ふなり。
  俗人猶
(ぞくにんな)を然り。況や学道の衲子(のっす)、私(わたくし)を存ずることなかれ。
  亦寔
(まこと)の道(どう)を好まば道者(どうしゃ)の名をかくすべきなり。
  
            バラモンという名を超えたバラモンには執着がない。
            彼こそ清浄であり、漏尽者であり、真のバラモンである


        糞掃衣(ふんぞうえ)を身にまとい 血管あらわれ、痩せ細り
               林に独り、禅をする者 かれを私はバラモンと呼ぶ
・・・395句

粗末な衣をまとい、血管が表れた皮膚をし、やせ細ろうとも静かなる処で座して、
ひたすらに黙想する者。かれを私はバラモンと呼ぶ。色衣に金襴の袈裟をまとい、
こころの内は三垢に汚され、意味も解らず経を読み、形だけの作法を競う者はバラモンにあらず。

しかあれば出家は学仏(がくぶつ)のちからによりて食分(じきぶん)も尽(つく)べからず、
白毫
(びゃくごう)の一相、二十年の遺因(ゆいいん)、歴劫(りやくこう)に受用すとも
(つく)べきにあらず。ただただ行道(ぎょうどう)を専(もっぱ)らにして、衣食(えじき)をもとむべきには
あらざるなり。身体血肉だによくもてば心も随
(したがい)てよくなると医方(いほう)等にも見へたり。
 いはんや学道の人、持戒梵行
(じかいぼんぎょう)して仏祖の行履(あんり)に任て身を治むれば、
心も随
(したがい)て調(ととの)ふなり。

        仏道は食べるためにではなく、法のために学ばれるべきものである。
            この道を行く者には必ず法に守られ、心も自然と整う。


      母より生まれた胎生者(たいしょうしゃ)を バラモンなりと、私は呼ばず
           かれがもしも所有するなら 「君よ、と呼ぶ者」となる
           無一物にて無執着の者 かれを私はバラモンと呼ぶ
・・・396句

    寺の子として生まれたとて、僧侶ではない。無一物、無執着の者を僧侶という。
    寺は檀家のものであるのを忘れ、子供に後を継がせることに こころ寄せる者は「君よ」と
    声かけられる者にすぎず、バラモン(僧侶)ではない。
    況や、経典のどこにも記されていない「住職」や「副住職」という俗な言葉に執着する者をも。

余談・・・製本関係の会社を営んでいたときの同業者の兄さんが相国寺の僧侶でした。
その方は国立大学を出たあと在家から僧侶を目指され、相国寺のトップであり京都仏教会のトップも
勤められたと聞きました。もちろん妻帯はされていませんでした。
真冬でも素足に作務衣姿で京都から大阪の実家へ寄られるとき、私の店の前で合掌・会釈されていました。
若くして亡くなられましたが、飾らない自然体での合掌・会釈姿は今も忘れません。


         すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、
           とらわれることの無い人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ
・・・397句
諸行無常・諸法無我・無執着を説くべき者が永遠の寺院の存在・特別の存在・世襲に執着してはいけない。
それらから解き放された者を僧侶と呼ぶ。

また云(いわ)く、今、仏祖を行(ぎょう)ぜんと思はば、所期(しょご)も無く、所求(しょぐ)も無く、
所得
(しょとく)も無くして、無利(むり)に先聖(せんしょう)の道を行じ、祖祖の行履(あんり)を行ずべきなり。
所求を断じ、仏果
(ぶっか)をのぞむべからず。さればとて、修行をとどめ、本(もと)の悪行にとどまらば、
(かえっ)てこれ所求に堕(だ)し、?(かきゅう)にとどまるなり。
(『正法眼蔵随聞記』四の十)
仏祖の道を行くとは、無執着、無所得に生きることであり、
最初から最後まで生涯一貫して修行であり、その修行が悟りである。

    蜜蜂は 花の色香をそこなわず ただ密のみをたずさえて 花から飛び去る
           聖者が 人々に接するときはそのようにしなさ
い・・・(49句)
      僧侶は対価を求めてはいけない。僧侶は袈裟にお辞儀をさせてはいけない。
          
日本仏教の堕落は妻帯・世襲によるものだという意見がネットに掲載されていました。
それを否定することは出来ません。

(大方は)妻帯すれば子供ができる。子供ができれば継がせたい。
子供は、この親にこの子ありで、寺の子だから継ぐのは当たり前と思い込んでしまう。
各宗祖の誰が世襲という世間法の行為を認めたのか。
そうであれば、日本仏教界は箍(たが)のゆるんだ俗人以下の集団でしかない。
寺の息子よりも僧侶らしく、素晴らしい人格者がいるにもかかわらず世襲を認める日本仏教会は
梨園と成り果て、坊主を演じるだけの歌舞伎役者のような集団

*ブッダは息子に、ラーフラ・羅睺羅(らごら)という名前をつけました。
「障害・障り・束縛」を意味 すると言われています。
妻帯と世襲の正当性を説く僧侶に問いたい。ブッダは何故、我が子をラーフラと名付けたのかを。


ニュース他で児童虐待が報じられても、殆どの寺・僧侶はその子たちに手を差し伸べることは無く、
対岸の火事のごとく見つめるだけ。およそ、犯罪は心の病が起因しているのでは?
その心の病を癒す役を務める者は誰あろう寺・僧侶であろう。

菩薩道はつまらぬ教義を説くのではなく、実践ではないだろうか。
我が子さえ良ければいいのか。
仏陀はそのことを見通して、僧侶の妻帯を戒めた・・・ネットより

*子供がなければ寂しい おれば気になる しかも死ぬまで

尼さんと話す機会がありました。瀬戸内寂聴ではありませんよ。その人が微笑みながら
「世間法に身をおくのではなく、出世間法に身をおくことを心掛ける努力をしているつもりですが」と。

福沢諭吉の言葉「坊主とは 俗より出でて 俗よりも俗なる者を言う」を地で行く私には痛い言葉です。

               次回は私の好きな 一休さんです。
                ページのご案内