一休さん
写真は、とんちで有名な「一休さん」のモデルである一休宗純が八十八歳で亡くなるまで過ごした
寺 酬恩庵(通称・一休寺)で、関西では隠れた紅葉の名所とされています。
左から2つめの写真は一休さんの墓です。
天皇のご落胤と伝えられ、墓の門には菊の御紋が透かし彫りにされている。
一休さんは当時の堕落しきった寺・僧侶の姿をあばくため自らを狂った雲「狂雲(きょううん)」と称し、
多くの女性と交わったが、七十八歳のとき住吉の薬師堂で鼓をうつ盲目の旅芸人だった森女(しんじょ)と
出会い、本当に心から愛情を寄せあい、この酬恩庵で共に過ごしました。
森女は三十歳前後であったでしょうか。
昨年秋、JR学研都市線京田辺駅から20分ほど歩いて酬恩庵に行ってきました。
縁側に座り、時を忘れ紅葉を見て楽しんだのを妻に告げると早速、私も連れてってと言われ、
翌週に訪れました。
妻は紅葉を満喫し、色んなことをメモ書きしたあと「ぜんざいを食べよう」と言うと同時に注文。
そのあと、同じ沿線の娘の家に寄って孫の顔を見て帰りました。
漫画やテレビでお馴染みのクリクリ頭の「トンチの一休さん」は室町時代中期の臨済宗の禅僧
「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」の愛称です。
一休の父は時の天皇・後小松帝。母は藤原氏一族の日野納言の娘・伊予局(いよのつぼね)です。
美しさと高い教養を併せもつ彼女は帝に厚く寵愛され、やがて一休をみごもりました。
しかし、彼女を妬む者の中傷や讒言により宮中を追われ、洛西・嵯峨の片田舎の民家に隠れ住むことに
なり、その哀れな環境の中で一休は生まれたのです。
一休は六歳のとき京都・安国寺に入り僧名=*戒名「周建(しゅうけん)」を授かり、
十七歳のときに師事した謙翁宗為(けんのうそうい)の「宗」の一字を与えられ「宗純(そうじゅん)」
と呼ばれるようになりました。
そして、二十五歳のときに師事していた華叟宗雲(かそうそうどん)から「一休」の*道号を
与えられ「一休宗純」と名乗ることになり、次の歌を詠みました。
有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る
一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
・・・煩悩にまみれた一生なんて、この世から、来世までのほんの一休みにすぎない。
このことを悟ったならば雨が降ろうが風が吹こうが、私には取るに足らないことです・・・
「有漏路」の「漏」とは煩悩のことで、有漏路とは私たちが生きてゆく上での煩悩にまみれた
迷いの世界のことで、これを取り去った悟りの境地が無漏路といいます。
*戒名(かいみょう)とは、ブッダの決められた自発的な戒めを守り世俗を離れ(出家して)、
仏門に入るために授与される名前ですが、今は亡くなった人に与えるものと思われています。
*道号(どうごう)とは、仏門に入った後、戒名のほかに、自己の悟りの内容や願いを表現して
つける名前です。が、いつからか本来の意義が薄れ、単なる別名・通称となりました。
一休は天皇の子として生まれたが、生涯を民衆の中に身を投じ、民衆と共に生き抜きました。
禅僧でありながら、悟りさえも否定して、自由な禅のあり方を主張し、本来の禅そのものを
正面からとらえようと努め励みました。
当時の僧院では堕胎が行われたり、男女の僧侶が同居していることが報告されています。
肉食妻帯が公然とおこなわれていたことも事実でした。
飲酒もまた般若湯(はんにゃとう)と呼ばれ広くおこなわれており、足利義持は相国寺の規式十四条を
定め、その中で飲酒を禁じているほどでした。
こうした当時の僧の偽善をあばくために、一休は自らも公然と女犯お行い多くの女性と接し、
徹底して権力を否定し、表向きは僧侶の振る舞いではあるが、裏では魚を食べ、酒を飲み、女を抱き、
権力にすり寄り、僧階(僧侶の位)を欲しがり、金襴の袈裟を着けたがる僧侶を諷刺しするために、
わざとのようにボロ衣で遊女屋に出入りし、隠れてではなく酒を飲み、魚を食べることを
当然のように行い「鞘に納めていれば立派に見えるが、(権力者や坊主などは)抜いてみればホレ、
ただの木刀でしかない」と言って、朱鞘に木刀を忍ばせて腰に差し、街を歩きまわった。
多くの寺・僧侶は古今を問わず、寺・僧侶への非難はその資質であることを分かっているのだろうか?
1549年に来日したフランシスコ・ザビエルの書簡の中に
坊主は人間社会で最も忌み嫌うべき獣欲を欲しいままにし、訓戒されても馬耳東風と聞き流し、反省悔悟
することまったくなく、口では殊勝らしく決議を説く者であり、寺院は日本国の中で最も不道徳な者の
集まりである。と書いているといわれます。・・・鎌田 茂雄・著「風狂に生きる一休」126ページ
*キリスト教も?のところがないとは言えないのでは。宗教とは他宗を非難排除して存在し得るもの。
門松や冥土の旅の一里塚。
めでたくもありめでたくもなし
元旦には墓地で拾ってきたドクロを青竹の棒先にさし貫いて持ち歩き庶民にこの世の無常を
説いてまわりました。
このような風狂・奇行、そして反骨精神を人々は避難するどころか戒律や形式にとらわれない
人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、権力を恐れない、人間・一休として受け入れ、江戸時代に入り
「一休さん」として慕われ多くの逸話ができ,後に「とんちの一休」の話としてまとめられて今日まで
語り継がれ、漫画やテレビでお馴染みのクリクリ頭の「トンチの一休さん」の誕生となりました。
私は、自らを狂った雲「狂雲(きょううん)」と称し、また破戒僧と称し、一草庵に住み飄々と
「人間」を生き抜いた一休さんと、恥じることなく自らを愚禿と称した人間・親鸞が好きです・・・
*親鸞の言うところの愚禿とは愚かな禿坊主ではなく、やむなく還俗し(させられた)、
おかっぱ頭のように髪を伸ばした己の姿を言い表したのでは?と思いますが。
インターネット等で一休宗純の肖像画を見てください。
クリクリ頭の小坊主のイメージとは程遠い風貌です。
一休さんの言葉はこちらから
次回は 大日如来 です
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