一休さんの言葉
ゆく水に 数かくよりもはかなきは
仏をたのむ 人ののちの世
・・・流れゆく水の上に、今までにあった数々のことを書こうとしても書けない。
それよりも儚いことは、のちの世(死後)を仏に頼んだり頼ったりすることだよ・・・
ゆくすえに やどをそことも定めねば
ふみまようべき みちもなきかな
・・・行く末としての宿(死後)を定めることはないんだよ。極楽へ行けるか、地獄に堕ちる
とかを先に定めてしまうと、そこへ行く道を迷い探し求めなくてはいけない。
そのようなことを思いわずらうのは愚かなことだよ。死後のことを仏に願い、
ゆくすえ(宿)を定める前に死後のことを仏に願い、ゆくすえ(宿)を定める前におごらず、
あせらず、騙さず、妬まず生きなさい。
その結果として、地獄もあれば極楽もある。それと同じく、わが身も人を頼まず、頼らずを
心がければ喜怒哀楽に心がゆり動かされることもなく、人を恨むという心も生じることは
ないんだよ。成すべきこともせず、死後のゆくすえ(宿)だけを思い煩うのは儚いことだよ・・・
此の世にて慈悲も悪事もせぬ人は
さぞや閻魔(えんま)も困り給(たま)わん
まず、この唄の悪事とは残酷卑劣な犯罪行為ではないということです。
そのような行為を働いた人はブッダの言われたとおり重い石は浮かびません。
私は思います・・・極楽浄土で毎日、阿弥陀さまの説法を聞き、小鳥のさえずりを耳にして、
綺麗な花々を目にし、好きな音楽を聴いり、心なごむ人との歓談して暮らせる人は、
それはそれで良し。
でも、そのような暮らしは自分に合わない。それより地獄で閻魔(えんま)さんと
「鬼ごっこ」を楽しむ人もいれば、それはそれで良し。
亡くなられた人にはそれぞれの往生があり、その処での生き方を個々に
味わう工夫を楽しみ、チャレンジすれば良いのでは?
だから、この世での生き方を考えるのが優先なので、あの世のことに思いを傾け
「死ねば極楽」とか「わたしを供養しないから悪さ(バチを与える)をしてやる」
と企むことは、つまらぬこと。
往生・・・彼の地へ「往きて生まれ変わる」という意味です。
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ここからは一休を師とあおぎ、親交の深かった蜷川新右衛門の作も掲載しましょう。
青字(蜷川)とあるのは蜷川新右衛門(にながわしんうえもん)の作です。
金銀は慈悲と情けと義理と恥
身の一代につかうためなり
一休もやぶれ衣で出るときは
乞食坊主と人はいうらん・・・(蜷川)
今日ほめて明日わるくいう人の口
泣くも笑うもうその世の中
衣より袈裟より俗の古じゅばん
おのが技倆で着るぞとおとき・・・(蜷川)
袈裟衣ありがたそうにみゆれども
これも俗家の他力本願
骨かくす皮には誰も迷いけん
美人というのも皮のわざなり・・・(蜷川)
皮にこそ男おんなのへだてあれ
骨にかわる人かたもなし
じごくとは何を岩間のこけむしろ
いろと欲とで身を破る人・・・(蜷川)
鬼という恐ろし者はどこにある
邪見の人の胸にすむなり
極楽や地獄があるとだまされて
喜ぶ人におじる人々・・・(蜷川)
亡き人を 仏といふは何ゆえぞ 小言も言わぬ
じゃまにもならぬ それゆへほとけといふ
死んでから仏になるはいらぬもの
いきたるうちによき人になれ・・・(蜷川)
仏にもなり固まるはいらぬもの
石仏(いしぼとけ)を見るにつけても
ひとり来て独りでかえる道なるに
みち教えんというぞおかしき・・・(蜷川)
引導は無事なる時に受け玉(たま)え
末期の旅に赴かぬうちに
妻や子が側でなげくもきき入れず
死んでゆく身に何の引導・・・(蜷川)
阿弥陀仏 南(みな身)にあるを
知らずして西を願うは はかなかけり
死にはせぬ どこへも行かぬ ここにおる
訊ねはするな ものは 言わぬぞ
拝借申す四大五蘊(しだいごうん)お返し申す今月今日
私たちの身体を構成する成分、これは宇宙から借りて身体を作り、維持してきた。
これを死ぬにあたって これを宇宙にお返しする・・・一休。。メモ書きより
鎌田茂雄著・風狂にいきる一休
2020年1月に、ノートパソコンと31型ディスクトップパソコンを買い替え、
このHPはソニーVAIO・SX14で作成しています。
パソコンによっては行書体が対応しないこともあります。
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