母を想う

久しぶりに母の夢を見ました。
母は大正6年生まれで、平成22年2月19日に92年のありがたい人生を終え永眠しました。
最後の病院での治療等は1週間でした。
それまでの2年は綺麗な介護施設でおせわになり、個室の部屋を自分のマンションと思っていた
ようで「この家、高かったやろ?みんなで買ってくれたん?ありがたいなぁ」と言っていた。
施設内の集会所へ行くのが楽しみだったのか、手押し車を押しながら
「デー(ディ)サービスに行くねん」と元気に廊下を歩いていました。
しかし、前年12月初めに転倒してベッドから立ち上がれなくなり、車椅子での移動しか
できなくなると急に痴呆がひどくなった.。
それでも私が施設を訪ねいつもの「誰かわかってるか?」と声をかけると母は
「ひとり息子を忘れてたまるかいな」と言っていたのが、ひと月ほど経つと「大体わかってる」
の返事になった。そして亡くなる一週間前に意識を失い呼吸困難となり、入院となりました。
病室に駆けつけた姉妹が母の耳もとで「お母ちゃん苦しかったら、もう頑張らんでもいいよ」
と言うと母の目から一筋の涙が流れ、妹がそっと目を開けてやると母の目から
涙が溢れ出ました。
入院5日目に主治医から「延命を望まれないなら、連絡のつく方たちに知らせてください」の
主旨を伝えられ、私は母の病室で寝泊りして母と過ごしました。
そして2日目の夜中、看護婦さんがあわただしくなってきたのを見て早朝、
姉妹他に電話・メールで連絡しました。
朝9時過ぎ蘇生のため病室を出るよう促され、その数分後に主治医から病室に入ってくださいと
言われ臨終を告げられた。
息を引き取る瞬間は看取ることはできなかったが、今まで息も絶え絶えに苦しんでいた
母の顔が微笑んでいるようでした。
姉妹は母の唇に紅をさし、化粧をしてくれました。母は美しかったです・・・
母を思い出すときは私が子供のころのことが多いです。
母は身長140cmほどでしたが父の仕事を手伝いながら私たち4人の子供と住み込みの
職人さんたちの食事をつくり、夜中近くまで洗濯板で洗濯をしていた姿を思い出します。
父もよく働きましたが母の働く姿のほうが思い出として強く残っています。
・・・ 妻への感謝 ・・・
私の妻は本当に母を大事にしてくれました。父が亡くなったあと33年の間、母は一人暮らしがいいと言って、私の家からも姉夫婦の仕事場からも自転車で5分程の公団1LDKの部屋で暮らして
いました。 妻はその間、母の好きそうなおかずを作ったとき、また時間があれば母を気遣い
訪ねてくれました。姉妹も感謝しています。
妻が「お母さんは私と一緒に暮らせへんから長生きできるんやで」と言うと、
母は「へえぇ、おおきに。ほんまにその通りや」と笑いながら(負けずに)答えていたのを
思い出します。
そして「香葉子さんは時々きついこと言うけど本当に良くしてくれる。ありがたいことや」
と言っていたことも。
そして私が54歳のとき大阪市の都市計画協力のため、自主廃業を選択したとき妻に
「2年間、高野山大学で仏教とは?を知りたい」と言うと
「お父さんの敷いたレール(仕事)を引き継ぎ、脱線せずに頑張ってきたからあとは好きにして
いいよ」と言ってくれました。
また、妻は私の叔父・叔母にも快く接してくれました。
私が叔母の成年後見人をしていたとき、叔母は私に家の近くの施設でお世話になっていました。
妻は2年の間、自転車で5分ほどの施設に向かい、一時間ほど話し相手に毎晩行ってくれました。
施設のスタッフの方たちが、妻が甥の嫁であることに気付いたとき
「実の娘さんとだとばかり思っていた。頭が下がります」と感心していました。
そして、一つ一つ干渉することなく私を自由にさせてくれて感謝しています。
母の葬儀では観音経を唱え、曾孫たちが母の遺影に向かい何曲かの童謡を歌ってくれました。
そのあと、参列の皆さまに次のお礼の言葉をのべました。
「本日は、お忙しい中ご参列いただき誠にありがとうございました。
母は一昨日、九十二年の人生を送ることができ「ありがとうお世話になりました」の
言葉を携えて心安らかに旅立ちました。
母は本日ご参列の皆様をはじめとして 多くの方々とのありがたいご縁、おかげにより、
良き人生を終えることができました。心よりお礼申し上げます。
仏教の祖、お釈迦様は「この世の一切は縁起により成り立っている」。
そして「世に母あるは幸なり 父あるは幸なり」と説かれました。
母は両親の縁によりこの世に生を受け、また私・二人の姉・妹も父と母の縁によりありがたい
命を授かりました。母がいなければ私たちは生まれなかった。
そして母のおかげで私たちは育ちました。
私たちを丈夫に育て、年老いても命ある限り心配し続けてくれた親の恩のありがたさを
教えてくれました。感謝しています。
その母を私は観音さまと捉え本日、観音経をお唱えいたしました。
皆様もご存知の観音さまは、わたしたちの喜び、悲しみの声を観じ聞き取り 三十三の姿に
変化され わたしたちと喜び悲しみを共にして慈悲の心を惜しむことなく与え続けておられます。
母を思い出したとき 観音さまは母の姿となり、微笑みかけてくれます。
母は今、観音さまのお傍で「ありがとう。ありがとう。
いま、おじいさんが迎えにきてくれたよ」と笑顔で語りかけています。
そして、本日ご参列いただきましたお一人お一人に 「皆様のおかげさまで、ありがたい一生を
送らせていただきました。感謝しております」とお礼を申し上げています。
この母の言葉をみなさまにお伝えし、母を見送れることを心からありがたく思っています。
本日、ご参列いただきました皆様、誠にありがとうございました」 合掌
葬儀の数日後、葬儀会社の女性社員の方が2度訪ねて来られ、
「感動しました。わが社の専属僧侶としてお迎えしたいのですが?」と言ってくださいましたが、
お断りしました。葬式を職業とする考えはありません。
*母の戒名は「慈教淺大信女」です。
母の名は淺子だったので、慈教淺大の大は大きく広くと捉え、遠浅のような大きく広い
慈しみを教えてくれたと言う意味で、信女は信心深い女性という意味です。

母は観世音菩薩、父は不動明王と捉え、彫刻しました。
世に母を敬うことは幸なり
また父を敬うことも幸なり
正しき道をあゆむ人と
めぐりあうも幸なり=ダンマパダ332句
次回は仏式葬儀への問いかけです
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