愛読書・1

今回は、私の愛読書の中から「笠原一男著・日本人と宗教/親鸞〜その栄光と挫折」を選び、
そこに書かれている幾つかを綴ります。
この本の前半は仏教伝来から現代までの日本仏教の特質と、それを問い質す項目が
書かれている。後半は親鸞の栄光と挫折が書かれています。
古本屋で見つけたのですが綺麗な布制のカバーを買ってその中に入れ、大事にしています。

P19・
「日本人の大部分についていえることは、古寺に安置されている仏像に、本尊に、これにまつわる
伽藍にひかれるのは、それらを祈りの対象として、信仰の対象としてひかれるのではない。
現代人は仏像に対して、美術品として、芸術品としての関心を示して集まる。
それも国宝、重文としての評価が下された仏像にだけ関心を示し、それ以外は目もくれない、
なんら関心を示さない」

P20・
「奈良や京都の古寺を訪れる人々の中で、その寺がどのような仏教を伝えているか、
つまりどのような宗派かをご存知の方はまことに微々たるものといえる。現代人にとっては、
自分が訪れる寺が何宗にぞくするかなどということは、どちらでもよいのである」

P21・
「仏教の哲学に関心を示す人々のうちのどれだけが、仏教の救いの哲学を信仰として
捉えようとしているかというと、答えはまことに悲観的であるといえる。
その大部分は、開祖の哲学を、仏教の哲学を、単なる学問として楽しんでいるのが実情といっても
よかろう。いったい、仏像は美術品・芸術品としての目的としてつくられたものであろうか。
決してそうではあるまい」

P22・
「仏教の哲学、教義は、信仰をささえる論理として人々に信仰をもたせるためにこそ、
その存在価値があるといえよう。だからこそ、仏教を学問研究の対象としてしか捉えなかった
古代仏教の立場を否定した鎌倉仏教の開祖たちは、こぞって仏教は学問ではない、
信仰こそ仏教に接するただひとつの立場であることを主張したのである」
「法然は、愚者に帰って救われると言い。親鸞は、仏教は学問ではない、信仰である。
学問でないことをしるために、いかほどでも、いかほどでも仏教の学問をせよといっているのです。禅の根本的立場である『不立文字』も、仏教を学問の対象として捉えてはならないことを
説いているものといえよう」

P23・
「既成仏教の僧侶の99%が果たしている大きな役割とは一体なんであろうか。
それこそ葬式と墓守り、法要、つまり死者に対するお経の配達である。
いいかえれば、死者を媒介として生者につながり、墓守りとしての役割りが最大の役割りである」
「現代社会の既成仏教の僧侶は、檀家からの葬式の求めに即応するために寺の中に釘付けに
なっている。人の死の知らせを受ければただちに飛び出せる待機の姿勢をとることを、
檀家から強要されている。
それに忠実にこたえる僧侶が最も期待される僧侶像として、現代の日本人は考えている」

「現代の僧侶は、そのような意味で、現代人の要求に100%こたえているといえよう。
しかし、われわれが考えてみなければならないことは、葬式や墓守り、死者へのお経の配達が、
僧侶の果たすべき本質的役割りであるのかというと問題である。
法然、親鸞、一遍、そして栄西、道元、さらに日蓮が宗教活動を活発に展開していたとき、
果たして葬式や墓守りを最大の使命としていたであろうか。決してそのようなことはなかった」

P24・
「いつの日からか、仏教の果たすべき本質的役割りを、葬式と墓守りであるかのように人々に
教えこんでしまった以上、葬式と墓守りから手を引け、というのではない。
僧侶は葬式と墓守りもすべきであるが、それと同時に仏教の果たすべき生死の解脱という使命、
つまり、いかに人生を生き抜くかの心の支えを人々に与える役割りを果たさなければいけない」

P24
「既成仏教と現代社会との接点をまとめてみれば、祈りの対象を美術品としてあたえ、
人々を信仰へ導く教義を学問としてもてあそび、葬式と墓守りによって現代人につながるという
三つの点に要約することができる」

P31・
「日本仏教の開祖たちのだれが、仏教の果たす本質的役割をそのようなものと考えて、
かれらの生涯を仏教に捧げつくしたといえようか」
                    次回は愛読書・2です

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