愛読書・2
P35
「人間にとって、死ぬという問題より、もっとむずかしいことは生きるということであろう。
それはどの時代でも同じである。現代社会において幸福な人生をいきつづけることの
むずかしさは、人生というものを少しでも真剣に生きた人ならだれでも感じているはずである。
人間の幸福の内容は、考え方によってさまざまであろう。
だが共通していえる幸福とは、貧と病と争の苦しみをもたぬことといえよう。
だが現代社会において、貧・病・争のいずれかの不幸の原因を背負っていないと言い切れる人が
どれだけいるのであろうか。なかでも人間の大多数をしめる一般市民は、おしなべて貧という
苦しみを背負いこんである。その上に病を、争を加算されているのも少なくない。
そんな人間が、そんな民衆が、それぞれ自分ひとりだけが幸福になろうと、他を押しのけあって
争っているのが現代社会である。いや、人間の永い歴史でもある」

P37
「そうした人々に宗教があたえる本質的役割りは、即席のご利益を祈りによって約束することではない。宗教が果たさなければならない本質的な役割りは、生きる勇気と自信を失いかけた人々に、
生きる勇気と自信をとりもどさせることである。
信仰をキッカケに、失われた人生への自信をとり返させることである」

P57
「日本人は、縄文時代、弥生時代とよばれる原始時代いらい、数千年にわたって太陽・月・星・雷・暴風・山川・草木・鳥獣などのあらゆるものに霊魂があるのだと考え、
これを信仰してきたのであった。
原始時代いらい、これらの霊魂の怒りをさけたり、しずめたり、あるいは自分たちを
守ってもらうための呪術を発展させてきたのである。
そのような宗教事情のなかに、仏教というすぐれた宗教が伝えられてきたのである」

P60
「仏教の教理の研究もすすみ、聖徳太子の場合には、勝鬘教・法華経・維摩経などの三つの経典の注釈書を、太子自身が作り上げるほどの成果を生むこととなった。
だが、仏教の哲学の理解がその当時の豪族のあいだで、太子と同じくらい進んだのではない。
むしろ聖徳太子は特例といえるものであり、一般の豪族はただありがたいがゆえに、ご利益が
あるといわれるがゆえに、これを礼拝しているといった程度のものであった」

P61
「天皇や貴族が仏教に求めたものは、鎮護国家・豊作・天下泰平・病気平癒をはじめとする現世の利益を個人個人が、あるいは国家的立場でこいねがうといったものであるといえる。
そのためには競って寺を建て、仏像を作り、それに利益(りやく)を求めるという態度をとった。
いうなれば、自家用の寺と自家用の本尊をつくりうる者が仏のご利益にあずかれるという立場が
みられるのである。
その当然のなりゆきとして、権力ある者、富める者、つまり天皇、有力貴族だけが仏教のご利益を
独占するという情勢を生んでいった」

平安時代末期になると貴族に代わって武士が台頭し、 一般民衆の意識も高まるにつれ、
無常観にもとづく末法思想が流行、 浄土信仰が一段と高まっていったのである。
天皇・貴族の意志による国家的仏教は無力化し、民衆は新しい価値観新しい人生観、世界観を
求める時代的背景が渦巻き、古い観念や倫理、体系を捨てた 新しい思想が求められる真只中で
鎌倉幕府が開かれ、仏教も新しい時代をむかえるのである。
庶民が求めた僧侶の姿は天皇・貴族のお抱え僧侶ではなく、真に庶民の救済を念頭においた
僧侶を求め、生きる救いを求めていました。
それに応えたのが法然を始めとする、いわゆる鎌倉仏教の開祖たちである。

P105
「鎌倉仏教の開祖たちの年齢は若さに満ちていた。法然は四十三歳で、親鸞は二十九歳で、道元は二十七歳で、日蓮は三十一歳で、そして一遍は三十六歳で、救済の実践活動に
踏み切っている。当時の年齢としては、まさに心身ともに充実した年齢といえよう」

P114
「転換期の社会を生きぬこうとする民衆は、為政者たちによって幸福に生きる生活条件を与えられるどころか、むしろ為政者の踏み台として苦しむのが常である。それでも民衆は生きようとする。
しかし、為政者はその民衆に救いの手をさしのべることをしない。民衆は生きる最後の救いを宗教に求める。民衆はあくまでも仏教に生きる最後の救いを求めつづけた。
いかに死ぬかではなく、いかに生きるかの心の支えを仏教に、宗教に求めつづけた」

P115
「鎌倉時代の開祖たちはお互いにただ一つの救いを選びだした。念仏か題目か禅がそれである。
阿弥陀仏の救いを心から信じて、南無阿弥陀仏、弥陀仏救けたまえと念仏すれば、
すべての人々が平等の立場で救われる。
階級の別なく・身分の別なく、弥陀へのひたむきな念仏によってのみ救われる。
こうした救いを新しい時代の唯一の救いとして選んだのが法然であり、親鸞であり、
一遍であった。
また新しい時代に生きる釈尊の救いは法華経ただひとつであり、南無妙法蓮華教の題目によって、個人も社会も国家も、ともに幸福になれるのだ。との救いを主張したのが日蓮であった。
そして、『教外別伝・不立文字』をモットーとして、座禅による悟りの道を見いだしたのが
栄西であり、道元であった。
鎌倉仏教の六人の開祖たちにみられる立場は、仏教の救いを一部の僧侶や貴族の手に
独占させておくのではなく、これを全衆生に、全民衆に、全ての人間に、解放したことであった」

P125
「法然も弥陀の本願をただひとつの救いとして選ぶまでに、叡山・南都で合わせて三十年のあいだ
仏教の研究を重ねた。親鸞も比叡山延暦寺で二十年のあいだ学問としての仏教を追及していった。
しかし、法然も親鸞もそして鎌倉仏教の開祖たちは、仏教の救いは仏教を学問としてとらえて実現するものではなく、信仰としてとらえることの必要さを力説するに至り、救いのためには学問は
不必要だ、信仰だけでよいのだという立場を強調している」
が、法然を始めとする鎌倉仏教の開祖たちの思いも、彼らの死をもって薄れてしまう。

                    次回は貴重な体験です


                      ページのご案内