思い出の旅


夫婦での国内旅行は数多くあり、海外旅行もハワイが2回、ドイツ・オーストリアが1回、
一人旅はインド。
今回はドイツ・オーストリアの旅をUPしました。
2013年11月1日から夫婦で機内2泊、現地6泊のドイツ・オーストリア旅行を楽しんだ。
もちろん団体旅行。
22時40分フライトのカタール航空で、乗り継ぎ空港・ドバイまで8時間。
ドバイで3時間の待機。そのあとドイツ・、フランクフルトまで5時間。合わせて16時間。
長かった。座席はエコノミークラスだが幸いにも窓際の2シート。
離陸後、しばらくすると男女とも180pはある外人客が立ち上がり何かを言いながらの
屈伸運動。160pほどの私でもかなり窮屈だから、彼達はよほどきつかったのだろう。


     
往復の機内食はグーッだったが現地での食事は今一つ。団体旅行だから仕方ないね。
ドバイ待合ロビーで妻が「わぁー外人ばっかり」と言ったので「私たちも外人」と答えると
「ほんまやわ」・・・
翌日、ハイデルベルク城他を巡る前にガイドさんを挟んで「はいっ、写真」


     
      ハイデルベルク城へ入り、城壁から見た街並みは何か絵本のようだった。

 
現地での運転手とバス。
ドイツでは右側走行、おまけに一番前の席だったので慣れるまで何度か
身を縮めた。
アウトバーン走行は圧巻だった
      
    次男が勤めていた会社。次男は頬が少し
    張っているので海外へ行くと
    韓国人と間違えられる。と苦笑。

ハイデルベルク城をあとにして宿泊ホテルへ向かう途中、ガイドさんに
「次男が勤めていた会社の近くを通るなら、知らせてください」とお願いしていた。
しばらくするとバスがスピードを緩め、ガイドさんが「右に見えるのが会社ですよ」と
教えてくれた。


      

翌日、オーストリアの観光。写真左から、カラヤン・モーツアルト生家・サウンドオブ
ミュージック撮影現場。
その他、美しい城・荘厳な教会などの見学も良かったが、一番の思い出は自由時間の日に妻が
好きなベートーヴェンのゆかりの地・ハイリゲンシュタットを訪ねたことです。
英語の単語とジェスチャーで地下鉄、トロリーバス、路面電車を乗り継いで目的地に到着。
日本では電車、バスなどの料金は距離計算ですが現地では利用時間計算でした。
 切符販売機の前で戸惑っていると可愛い二人の娘さんが英語で「何処へ行くの?」と
 尋ねてくれたのでガイドブックの箇所を指さすと、それぞれの乗り物の往復2時間切符を
 買ってくれて大助かり。


 
 出発を記念しての撮影
 
地下鉄でハイリゲンシュタットへ。
右写真はハイリゲンシュタット駅。
 
到着後、トロリーバスに乗り換え目的地へ。バスを降りるとお孫さんを連れたおばあちゃんに地図を
見せると200メートルほど
一緒に来てくれて「ここだよ」と
案内してくれました。
  
  遺書の家、入り口。
 
   中庭2階が遺書の部屋。
   右は近くの教会。
  
  遺書の家、すぐ近くの教会。
  教会の鐘の音が聞こえなく
  なったときの無念さは
  如何ほどだったか

   
 
ホイリゲ(ワイン酒場)に入るまで時間があったので、すぐ近くのレストラン」へ。
  
 とりあえず、コーヒーを一杯。
  
   ホイリゲ横の駐車場。
 

  
ホイリゲ(ワイン酒場)
「マイアー・アム・プファルプラッツベートーヴェンハウス」の
入り口と中庭。

   
    食事前に、ハイッ写真。
 
6時ころ、ホテルへの
帰り道


      
  トロリーバスを待つ間に写真
  
翌日、最後のホテルを出て帰路へ

ウィーンの郊外のハイリゲンシュタットはベートーヴェンゆかりの地です。
ハイリゲンシュタットはまさにホイリゲ(ワインの作り手による居酒屋文化)で知られる地域。
かつてこの辺りは、鉱泉の出る保養地でした。
ベートーベンが滞在した理由も「難聴」の治療として医師に勧められたからなのですが、
残念ながら、効果はありませんでした。
作曲家として、どんどん聞こえなくなっていく耳に絶望し、死を考えたベートーベンは、
2人の弟宛に「遺書」を書きました。1802年10月6日、32歳の時です。
出されなかった手紙は彼の死後に発見され、そこにはベートーベンの「芸術に対する使命感」が
書かれており、人生の転換点を示すものとされています。
散歩道の近くにある家は「ハイリゲンシュタット遺書の家」として公開されています
・・・ネットより


20代の終わりのころから、だんだん耳が聞こえなくなってきたベートーヴェンが作曲した
交響曲第9番が初めて演奏されたのは1824年5月7日、
ウィーンのケルントナートーア劇場(宮廷劇場)でした。
演奏後、多数の聴衆が感動のあまり、涙を流し5回のアンコール拍手を送りました。
しかし、自ら指揮棒を振ったベートーヴェンの耳は既に全く音を感じることができなくなって
いたため、客席からの割れるような拍手に気付かず、客席に背を向けたままの彼を歌手の
ひとりが振り向かせて、気づかせてくれたといわれています。

初めて「ベートーヴェン・交響曲第9番」の演奏を聴きに行ったのは
朝比奈隆・指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏でした。
第4楽章(合唱)に入り、後方に控えていた男女合わせて100人の合唱団が一斉に
立ち上がり、歌い上げる「歓喜の歌」に夫婦で身震いするほど感動しました。

そのあと妻は70歳まで抽選の結果、16回ほど「サントリー1万人の第9」参加しました。
私も一度だけですが「佐渡裕指揮・1万人の第9」に参加することができ、
指揮者から10メートルほど離れた処の真正面でした。
湧き出す汗を拭おうともせずにタクトを振り、私たちと共に合唱する佐渡裕の姿を
目にすることができ、本当に感激しました・・・

     誰がこの地をのりこえられるのか また誰がこの争いの世界と

          神々がもつ世界とを のりかえられるのか 

     だれが あの輝ける真理の道に咲き誇る花を 摘みとることができるのか 

          争うことを解き放ち 世界でもっとも美しき 真理の花を 

            そう それはあなた
・・・と思って合唱しました。

翌朝、食事のときに「二人で、ベートーヴェンゆかりの所へ行ってきた」と皆さんに伝えると、
「エーッ、一緒に行きたかった。ガイド無しで?私たち4万円ものオプション料払って
あちらこちら行ったけど料理も、観光場所も別にいいことなかった。疲れただけ。」と嘆き節。

*今年、大学1年の孫(女子)が2019年・80人編成の学生交流会メンバーの
バイオリン奏者の一人としてウィーンの学生たちと音楽堂で合同演奏しました。
夕食のとき、ウィーンフィルの数人がテーブルの横で演奏してくれたそうです。
感想を聞くと、あっけらかんと「ウン、上手やったで」と天然の答え。
でも、天然孫は某オーケストラに入ることができ、昨年は佐渡裕指揮のもとで演奏。
今年も、大阪いずみホールでビゼー・交響曲第1他の演奏に参加することができました。
コロナがおさまると演奏会が増えることを楽しみにしています。


まだまだ書きたいことや写真もUPしたいのですが、これぐらいにしておきましょう。

             次回は日本縦断・列車の旅です

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