手帳に書き留めた文・1

毘沙門天と吉祥天。吉祥天は娘に贈りました。
2018年6月18日の大阪北部地震で、人形や置物が倒れたけどこの仏像は倒れなかった。
と娘が言っていました。
このページは高野山大学図書館で目にした文や、若い学生さん・私と同年配の聴講生の方たち・
往復6時間の電車内での会話。びわ湖大津館でのお話会などで書き留めた文を綴っていきます。
*見えなくとも花を供えたい。食べなくても美味を供えたい。聞こえなくても話したい。
見えざる者えの真心は美しい。この言葉は葬式仏教とは無縁の心からの言葉です。
*禅僧は「三世」を「先刻、後刻、只今」と応える。前世を言い、来世を問題にしては
ならぬ。禅仏教は常に「即今、即処、自己」の立場に立つ。
*死者の祟りなどというものは、日本人は特に死者の怨霊を恐怖した民族である。
仏教が日本伝来当時の権力者たちは、そうした鎮魂(御霊鎮め)には神主よりも坊さんの
法力のほうが秀でていると思い込み、仏教が取り入れられた。
仏教伝来は庶民の懇願からではない。
その御霊信仰にあぐらをかいているのが日本仏教である。
*読経ないし念仏によって死者が成仏するということも仏典の中には根拠はない。
死後はあるのかないのか?それは現世の人が自身の心に問いかけ、
その執着心を離れた境地に導き、それを説法するのが僧侶の役目です。
*釈尊は僧侶に対し、葬儀にかかわることを禁じたのは、葬儀そのものの意味を否定
されていない。葬儀は残された者たちがそれなりの真心をもって行えばいいのであって、
そこには決まったスタイルもなければ、これこれこうしなければいけないといった
強制も規制も一切ない。「庶民の葬儀は、すきなようにすればよい」・・・お釈迦さま
・・・仏教経典に「葬送儀礼」は説かれていない。
*葬式と墓守から手を引けというのではない。させていただいております・
司祭者であります。という姿を言動で示さなくてはいけない。
聖職者などと思うと大間違いである。
僧侶という一人の人間が、亡くなられた人を責任を持ち極楽に行かせることが出来る
という奇妙な錯覚を持つならば偽物であり、大悪人以外の何者でない。
なぜなら、各宗祖たちは釈尊の教えに基づき、如何に人生を生き抜くかの心の支えを
与えることを最大の使命とされたから。
「葬儀と死後の行事によって家族を養うべし」と言い残した宗祖はいない。
僧侶が「これも時の流れ」と言ってしまえば、日本仏教会は死んだも同じ。
*釈尊の教えに涅槃の思想はあっても、死者を弔い冥福を祈るような神秘的な技法はない。
*日本仏教会とは、時の流れを口実にして、箍の緩んだ職業坊主の集団でしかない。
*布施→(布)は精神的に広く行き渡ること・(施)は物質的に恵みを授けること。
*釈尊は仏道修行途上にある僧侶が葬儀にかかわることによって、権威化され腐敗堕落し、
仏法本来の教えが歪められることを一番恐れた。
*「僧正」とは僧侶の最高位で、僧侶の濫行不正(らんぎょうふせい)=みだらなおこない・
不都合な行いを正すのが役目。
*「富者(ふしゃ・金持ち)よりは金を貰わんと欲し、権者(けんじゃ・権力者)よりは
権けん(権力)を藉か(借)らんと欲し、識者よりは知識を貰わんと欲し(かりものの
知識で自分を飾ろうとし)、信仰家よりは信仰を貰わんと欲す(人の信仰を利用
しようとする)。貰わんと欲す、貰わんと欲す。坊主根性は乞食根性なり」
「忌(い)むべく、避(ひ)くべく、斥(しりぞ)くべきは誠にこの坊主根性なり」
・・・『内村鑑三所感集』岩波文庫。
*知識・・・すべて誕生以来蓄積した雑念・妄想・我が思いのことである。
その知識をカットして入るのが禅定。仏教学を得意げに話して何になろう。
*三諦の理・・・、万物は因縁によって生じてまた滅していく。
つまり「空」だとする「空諦」。
しかし私たちの目前には姿・かたちあるものが存在することは事実である「仮諦」。
この二つによらないのが「中諦」。これが中道である。つまり、涅槃の境地。
*「老」・・・年齢のことではなく、その人の魂と知恵に付けられた称号である。
老醜(ろうしゅう)は、としばかりとって何の境地にも達していない者。
*自業自得・・・仏教の大原則である。すべて自分がつくった業(善悪の行為)の報いを
自分が得るのである。他人の業を受けるのではない。
*菩提(悟り)・・・「実の如く自らの心を知る」。悟りという仏の智慧はどうしたら
得られるか。人間はだれでもその智慧を心の中にもっている。
それなら、どうしてみんなが仏になれないの?それは本当の自分の心を知らないから。
もし、ありのままの自分の心を知ればすぐに仏である。
*仏教を信ずる者は明日を思いわずらう必要はない。現在の自分の正しい行為
それ自体が功徳であり、ご利益であり、真の追善供養である。
*まだまだあるので整理しながら更新していきます。
*いまの日本仏教は自動車にたとえると分かりやすいでしょう。
運転して道路を走るという自動車の目的を見失っているのです。
自動車からエンジンを取り去って、派手な飾りをつけて、
「さあこの美しい自動車を拝め」 と言っているようなものです。
そして「車を拝めば、死んでから目的地につけるのだ」
「そもそも出発地と目的地に区別などないのだ、空なのだ」
といった屁理屈で人の健全な疑問や向上心をスポイル(台無しに)する。
・・・ネットより
次回はその2です
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