手帳に書き留めた文・2

阿弥陀仏・・・王位を捨てて出家して修行ののちに菩薩となった法蔵菩薩が
 阿弥陀仏となる前に四十八の請願を立て、その中の十八番目に
「私が仏になったとき、あらゆる人が私を信じて私の浄土に生まれることを願って
 念仏するならば必ず迎える。それが出来なければ仏にはならない」

 との誓いを宣言した。これが念仏衆生摂取不捨の請願である。
 この誓いこそ浄土教のよすがであり、 極楽浄土に往生することを心から願い、
 喜び求める
欣求浄土(ごんぐじょうど)の根拠である。
 
仏を見ようとしても仏は見えてこない。汚れたコップできれいな水は飲めない。
  清水は浄器としか出会えない。愛は愛と出会うのであって、憎しみとは出会えない。
  「仏は常に在(いま)せども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、
  ほのかに夢に見えたまふ」

  仏のいのちと心は、いつでも、どこでも、だれの前にでも満ちあふれている。
  けれども、それは現実的認識や意識の対象としては見えてないのが悲しい。
  それが見えるのは人々が起きださない暁の夜と昼との境目、理性と理性をこえた
  世界との境目、ことばとことば以前との境地であり、夢のように直観によってしか
  見ることができない。


人はなぜ苦しむのか。それは事実と観念のギャップにより生ず。私がこのような顔や
  健康や病や能力であるのは、私のご都合以前の事実そのものである。
  しかし、人は観念を形成する。自分の欲望や恐怖心により都合のよい観念をもって
  しまう。
  その観念と事実のギャップが苦であり、事実を容認できない事態を苦悩という。
  自分の都合をすて、ご都合以上の事実にお任せしうるとき、人ははじめて束縛から
  解放されるのである。そのときに人は自己を超えたものを見ることができる。
  それを仏に会うという。


現実の人生をありのままに、何のごまかしもなく正しく見ようとする時、我々は、
  そこに 様々な形をとって現れているている生死の苦悩を見出さないでおれない。
  それらの矛盾・苦悩に対して眼をそらしてしまうことなく、また、たじろぐでなく、
  よくその苦に至る原因を見とおして、それから解放される道をたずね、求めてゆくこ
  とである。そして、その解決を外に向かって求めるのではなく、自らの中にこれを
  求めるのが陀のえ・・・仏教である。

臨終のときに十分に悲しみを表現することは良いことである。
  泣き崩れておくのである。でなければ、強い鬱(うつ)になることがある。

お釈迦さまは「遺族の追慕の念は清く美しくある。が、執着してはいけない」
 と説かれた。
 よって、僧侶はこれを死後の行事によって引きずり込み執着させてはいけない。
 忘れなさいと説くことが正しい姿勢。

無常であるからこそ、精進努力をテコとして、希望があるのだからと明るい見方で
  諸行無常の真理を見つめなさい。と釈尊は説かれた。

愚痴・・・真理・道理を知らぬがゆえに起こる苦悩の炎。

仏の教えは特殊な修行や学問をするごく一部のためにあるのではなく、衆生とよばれる
  普通の人々が生きる世界においてこそ説かれるべきである。


私たちは自分がいて、すべてのものが存在するのは当たり前と思っているが、
  そこから自分のもの、自分の考え、自分の領域という思いが生まれ、執着する。

人生、目的だけを、せわしなく求めると、人生という旅路の景色を楽しめない。

私たちは、この肉体をもっての生命は一瞬の時間しかない。地球上(現世)を
  修行の場とするか、牢獄とするかは自分の考え方の中に潜んでいる。

不即不離(ふそくふり)・・・穀物を収穫するには三つのことをしなくてはいけない。
  先ず、田を耕して平らにする。次に正しい時に種をまき、次に敵事に田に水を注ぎ、
  次に適時に水を排除する。この三つは同時に得られないが別々にも得られない。
 ちょうどいい関係が成されて、穀物が育つ。
 それを弁えて、一つの考えに固着して、他の意見を全く受け入れないことは
 良くありません。
 何事においても「不即不離」を意識することが、より過ごしやすくなる方法です。

切り口で判断するな・・・円筒形の茶筒を横に切れば切り口は丸。
  縦に切れば矩形(くけい・さしがた=長方形)。斜めに切れば楕円形(だえんけい)。
  切り口は違っても同じ茶筒。自分の切り口を相手に押し付けることをしてはならない。

諸経混淆(しょきょうこんこう)・・・異なる宗教が入りまじること。
  多種の宗教の長所と思われるものを抽出し、折衷・調和させる日本人特有の考えかた。

儒教・・・「あぁ、あの古臭い道徳のこと」と思いがちだが、本当の意味での儒教は
  人間の死、また死者、死体について最もきちんとした考え方を説いた
  教えなのである。道徳的な側面はほんの一部でしかない。

「追善供養」という考え方がおかしい。
  本当は生きている間に仏道修行をやっておくべきである。仏教を信じる者は明日を
  思いわずらう必要はない。現在の行為それ自体が功徳であり、ご利益である。

           *整理しながら都度、更新していきます。


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