左の写真は2014年5月、次男が島根県の得意先へ行くときに連れて行ってもらった
出雲大社境内の大国主命(おおくにぬしのみこと)で、右は私の作品です。
「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である大黒天(大黒さま)と同一視され、
仏教に取り入れられた。
大黒さまが背負っている袋に入っているのは何か?幾つかの説がありますが、
私たちと僧侶に向けての<琴線に触れる言葉・金言>が入っていると捉えて
彫刻した高さ40pの檜作りです。
では、大黒さまの袋から出される言葉を聞いてみましょう。


空海弱冠(じゃっかん)より知命(ちめい)に及ぶまで山薮(さんそう)を宅(いえ)とし、
禅黙
(ぜんもく)を心とす。人事を経ず、煩砕(ぼんさい)に耐えず」・・・性霊集
「空海は若いときから五十の歳まで、山野を住まいにし、修行に生きて
きました。世俗のことは経験がないので、煩わしく耐えることができません」

これは空海が五十六歳のとき、天皇より「少僧都(しょうそうず)」という官位を授ける
勅書を受け、辞退を申し出た手紙に記された言葉です
・・・空海・黄金の言葉より。
僧侶たる者は、つまらぬ僧階や住職や副住職とやらの世俗の階級・役職に囚われ
てはいけません。捨て去ることです。

「身は花とともに落つれども、心は香(こう)とともに飛ぶ」・・・性霊集・空海

「人の死は姿の別れで会って、心の別れではありません。
     亡くなった人が生前に望んだように、自分で生きていくこと。
               それがその人の慰めになります」

青森で「森のイスキア」という憩いの施設を主宰する佐藤初女さんの
素晴らしい言葉です。小賢しい仏教用語を並び立て、「死」というものに仏教を
結びつけ、死後の行事よって家族を守る仏式葬儀は仏教と無縁のものだと庶民が
気づきました。亡くなられた方への感謝と、ありがとうございました。の清い想いに
死者の霊など無用であり、仏教に霊魂などは存在しません。
御霊入れ御霊抜きも説かれていません。


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「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり 
修繕も雑毒なるゆゑに虚仮の行となづけたる」
・・・親鸞

悪の本性をとめることはできない。私の心は蛇蝎のようです。善を行っていても、
それはしょせん自分の都合という毒がまじった善ですので「ニセモノの行い」と呼ぶしか
ありません
「自らの悪性を自覚している者」を、親鸞は悪人と呼びました。
この悪人は自らの力で悟りを開けない者であり、仏の救いに背き続ける仏道の上で
語られる悪人であって、社会的倫理のそれではない。

人間だけが「死」を認識します。人間だけが生きるために「意味」が必要です。
人間だけが、どこまでも「自分というもの」にすがります。
人間特有の苦悩というものがあるのです。

「念仏者の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも
捨て、地獄おそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、
一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。
仏道とは捨ててこそ、全てを任せる」
・・・一遍
仏教は自らのはからいを「捨てる」宗教です・・・以上は釈 徹宗/法然親鸞一遍より

*釈 徹宗さんの著書「不干斎ハビアン」・「天才 富永仲基」は読んでいても肩が
 こらない。
富永仲基を素直に天才と評しているところが好感をもてる。
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阿弥陀如来は凡人を救い上げる仏。浄土教は今・此処を弥陀の他力で活かされ生きる教え。
 禅宗は自力で今・此処を活かし生き抜く教えであって、それを基に他の人々を救い上げる。
人間を育てる教え。
浄土門とは、阿弥陀仏の本願によって浄土へ往生して仏と成る道。
聖道門とは、修行によって悟りを開く道。 共に仰々しい葬儀・死後の行事は不要とする。


「なにともなく、世間の人の様にて、内心を調えへもてゆくが、是れまことの道心者なり」
・・・道元
ある夜、道元が弟子たちにまことの求道者のあり方について語った言葉で
「内容がともなわないのに善人ぶったり、求道者ぶったりしてはならない」という意味。

人々はとかく衣服や容姿や肩書、地位などの外観で評価したがるが、そうしたものを殊勝げ
にととのえてもそれらは本当のものではない。それよりも、世間の人のようにさりげない
恰好であっても、心の敬服をまとうのがよい。

「機を見て作す、いまだ是、好守(こうしゅ)ならず。
       身を現じて構
(かま)ふ、(あ)へて承当(しょうとう)とせず」・・・道元
上から目線で「われ坊主なり」では、庶民からあざけ笑われるただのオッサン坊主。

「知らじ知らじ、われも知らじ、思ひ思ひ思ふとも、
                聖
(しょう)も心(し)ることなけん」・・・空海
知ったかぶりして薄学をさらす坊主は必要ではない。ただのウマ、シカでしかない。

「人が十人寄れば、箸にも棒にも掛からぬのが二人はおる。」・・・松下幸之助

「学道の人、悟りを得ざることは、即ち古見(こけん)を存ずる故なり」・・・道元
庶民の寄進にすがりつくくせに「坊主は俗人と違う」という先入観や独断に頼りきっている
坊主ほど、箸にも棒にも掛からぬ者である。現代坊主の師は庶民であることを悟りなさい。

「行者、自身の為に仏法を修すと念(おも)ふべからず。果報を得んが為に仏法を
修すべからず。但
(ただ)仏法の為に仏法を修する、乃(すなわ)ち是(これ)道なり」・道元
葬儀を職とし、果報=お布施と称する金品で妻子を養う現代坊主は、
昔は聖職であった上人が今や、商人となり下がり、もはや見識が失われ、
尊敬と信頼を見失った小者でしかない。

                 次回はその5です

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