冬来たりなば春遠からじ。

   
暖かくなれば、愛車「グランヴェロ」で淀川サイクリングロードをぶらりと走りたい。
33年前、厄年42歳の記念に私の身長にあわせて作ってもらった別注の自転車で、
ブリヂストンとイタリアの自転車会社共作です。価格は24万でした。
5年ほど前、サイクリング愛好の方から50万で売って下さいと言われましたが
断りました。世界に1台だけの愛車は手放したくありませんが孫にあげよう

・・・2020記
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*道元
「何(いずれ)の玉か、はじめより光ある。誰人(だれびと)か、初心より利なる。
必ず磨(みが)くべし、すべからず練るべし。
自ら卑下して、学道(がくどう)をゆるくすることなかれ」

ただ学問だけではなく 今を生き抜く力をみにつけることであり それは精神の向上に、
はばからない。
自然と社会と他人と向き合いながら
”自己研鑽
(けんさん)して、自分を磨かなくてはならない”

*空海・
「曲直(きょくちょく)、用に中(あた)って損ずること無し」
まっすぐなものも、まがったものも、 そのままに、つかいみちが、あるものである。

*親鸞・
「邪見驕慢の悪衆生、信楽受持(しんぎょうじゅじ)すること甚(はなは)だ以て難し」
ひとの外見はある程度の目安にはなるが、それだけでひとの価値を即断するのは
きけんであり、そうすることによって、かえって、本人の品性の貧しさを相手にさらけ
出すようなものである。

*空海・秘蔵宝鑰
「法はひとに資(よ)って弘(ひろ)まり、人は法を待って昇(のぼ)る。
人法
(にんぽう)一体にして別異(べっち)なることを得ず」
信用というものは、他人がその人の全人的行動や実績を見たうえで、正直に判断を
下してくれる。

*親鸞

「超世稀有
(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)
することなかれ」

どんな人からも何か得るところがある。ひとの意見に耳をそばだて、そのよきをとり、
悪しきを捨てる判断はまずよく聞くところにある。意見を聞き入れる。

*道元・
「中々世智弁聰(せちべんそう)なるよりも、鈍根(どんこん)
なるやうにて、切(せつ)に志(こころざし)を発する人、速やかに悟(さとり)を得るなり」
肩書や知名度はその人物をはかる一応の目安にはなるにしても、そうした先入観が
裏切られることもあることを承知しておかねばなるまい。先入観を捨てることである。

*一遍・
「生ぜしもひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり。
そいはつべき人なき故なり」

一遍は弟子たちに、自分の死後の処置について「仰々しい葬儀をしないこと。
死骸は野に捨て獣に食べさせること。
信者から墓所の申し出があつたらまかせて手をださないこと」を遺言としていた。
鎌倉時代の祖師たちは、親鸞や法然にしてもおしなべて同様の遺言をしている。

*道元・
「機を見て作す、いまだ是(これ)、好手(こうしゅ)ならず。
身を現じて構ふ、肯へて承当(しょうとう)せず」

善人ぶったり、知ったかぶりの薄学を垂れ、自ら壁を作る者は真の尊敬を得られない。
あるがままの姿でいなさい。

*曽野綾子・
「いい人」をやめれば 楽になる

半僧半俗。否、ほとんどが俗人で、少し仏教を知っている程度の私で良い。
肩書などは不要の私で良い。いい人ぶらなくて良い・・・これが私の生き方。


「妻子を帯(たい)し家に在りながら、著(ちゃく)せずして往生す。
是、念仏者の最上なり」・・・一遍上人
家族を持ち、在家でありながら、それに執着することなく、みごとに往生する者は最も
すばらしい念仏者である
・・・釈徹宗「法然親鸞一遍」より

*庶民こそが
菩薩である。
僧侶が先ず心に留めおくことは、"悟り"ではなく、"救い"の道を庶民に教えて
もらっていることを忘れてはいけない。
庶民を師として仰ぎ、共に菩薩道を歩むのが大乗の教えである。
荒んだ社会のなかで良識ある生活を営んでいる庶民の前では、
僧侶の悟りや小賢しい説法は、屁の値打ちも無い。

菩薩とは自分中心の修行ではなく、仏の慈悲行を通して一切衆生を救おうとする、
大乗仏教の理想的修行者像を意味します。。
自分も他者も同時に幸せにする生き方が“ボサツ”です。本当の自分の幸せとは
“他者を幸せにする事”によって成立します。
誰のそばにも、悟りへの手をさしのべ、時には厳しく、そして優しく導いてくれる菩薩のような存在者が僧侶のはずです。

釈迦の説いた教え(仏教)は、
普く人々が幸せに生きる教えです。
しかし、「多くの坊さんは般若湯(=酒の隠語)をのみ、妻帯し、葬式と墓守を
生業とし、宗教非課税特権に溺れ切っている。それが出来るのは多くの企業・庶民の
おかげであるということは毛頭ないだろう。、」
・・・ネットより

恐怖や不安、脅
(おび)え慄(おのの)きなどを取り除いて、安心させる布施行の
「無畏施
(むいせ)」を実践せず、 心の救いを求める目の前の庶民を
「見ないように背を向け」
つまらぬ(口だけの)教義を垂れるのは僧侶に非ず。

仏教思想に「普く人々を救い上げる」は有るが、葬式の金銭で自分の家族を守る
思想は無い。

子供のころ、小学校の帰りに近くの寺の庭で木登りや縁側に腰を掛け宿題をしたり、
ふざけあったりして楽しんだ。
住職はいつもニコニコして見ていたが、度を過ぎると「静かにせんか」のひと声。
その声は怖いというより、子ども心にも何か威厳を感じた。
そして、またニコニコしてお話しをしてくれた。「いじめてはいけない、ウソを言っては
いけない、強い子は弱い子を守りなさい」というようなことを覚えている。
綺麗な娘さんは勉強の手助けをしてくれたり、ピアノを弾いてくれたことを覚えている。
田舎の寺ではなく、大阪駅から徒歩で30分ほどの寺だった。
今から65年ほど前のことだが・・・
数年前に寺の前を通ったが、門を閉ざした光景に懐かしさではなく哀しい気がした。

昨年(2020)島原・天草を訪ねた折り、天草のキリシタン記念公園の帰り道で何か
声が聞こえたので足を向けると、広場で楽しそうに子どもたちとお母さんたちが
遊んでいた。ベンチに腰掛けて見ていると一人のお母さんが「どちらからですか」と
声をかけて下さったので「大阪からです。幼稚園の門番さんをしているので子供さんの
声に反応して見ていました」と答え、楽しい会話となった。
お別れの挨拶をしてすぐのところの寺は人ひとりいなかったが、庭に不釣り合いな
若者向けスポーツカータイプの車が止まっていた。寺の息子の車?

そういえば、東京の次男に招待され夫婦で東京見物のときに赤穂浪士・芝泉岳寺を
訪ねたあと、近くの高野山真言宗東京別院に寄ったが広い駐車場に車が一台、
参拝者は一組の老夫婦だけ。
すぐ近くの教会ではバザーだったと思うが、多くの子供たちと父兄たちが談笑していた。
寺に寄り付くのは法事のときだけなのだなぁ・・・

続きます

         次回は
「御条目宗門檀那請合之掟」です。

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