何でもメモ・ 青字は私の言葉です。

「日本仏教はいわゆる"大乗仏教"です。小乗仏教が丸木一本でただ一人が川を渡ると
 すれば大乗仏教は百人乗りの筏という意味です。
 釈迦は解脱つまりサトリの方法を教えたがとても自分たち平凡な者がサトリをひらける
 ものではない。それよりもサトリをひらいた人をほめたたえ、礼拝しようというのが
 大乗仏教の出発点でした。すぐれた人になるよりもいっそすぐれた人を拝もうという
 もので、釈迦の思想とは違った新思想が誕生したというべきです。」・・・司馬遼太郎

坊主は何を悟ったの?どこがすぐれているの?
葬儀と死後の儀式以外は寺に引きこもり、法衣を脱げば凡人よりも俗に溺れている。
そして、話すことは死人を想像でしかない扱いで取り繕う。間違いか?
・・・お話会の人

戒律を厳格に守ることを重んじる上座部(じょうざぶ)仏教=小乗仏教に対して、
お釈迦様の教えを広く大衆に広めることを目指したのが大乗(だいじょう)仏教で、
自己の解脱だけを目的とするのでなく、利他の行いによってすべての人間の平等な
救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとして、出家者に限らず在家者を
含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称で、
釈迦没後の約700年後に龍樹によって理論付けされたとも言われています。
・・・ネットより

損か得か人間のものさし、ウソかまことか仏様のものさし
・・・相田みつを

「大乗仏教」を唱える僧侶としての最大の目的は、
 庶民の目の前にある
悩み・苦しみから
の救済である。と思います。
 決して、葬儀を執り行うことや死後の行事だけが救済ではありません。
 また、寺はそのためだけの場所ではありません。
 僧侶のなすべきことは、与えて求めざる行(布施行)の徹底実践です。
 金銭の多寡で、はかりごとをしてはいけません。


「あんたはすぐに、しゃあない(しかたない)という。
 そやけど、しゃあないものは しゃあないなぁ。
 歳を取ると一年ごとに夏がしんどく、嫌になってくるで」
・・・母の言葉
    曹洞宗は只々座して(只管打坐)、己を見つめ己を問い、悟りに近づく教え。
    臨済宗は心を整へ、師から受けた公案(禅の問題)について考え尽くし、
    師と問答を繰り返すことで悟りを目指す教えである。
           よって、本来の仏教(釈迦仏教)に近いと思う。
    お釈迦さまは常に、智慧を得るために精神を集中させ(座して禅定に入り)
    弟子たちちには問答を繰り返し悟りへと導いた。
    また、人々の問いかけには比喩をもって分かりやすく応え答えた。
    禅僧はこれを心して庶民のなかに入り、わかりやすく本来の仏教を説き広めて欲しい。
    大乗仏教の精神である利他行を実践するうえにおいてのつまらぬ教義いらない。

   
つまらぬ自分たちの世界から抜け出せない坊主の説教よりも、
    壁に吊り下げている相田みつをさんの言葉は何
(なん)すばらしいことでしょう。
    ・・・お話会の人
   私も1階、2階のトイレに相田みつを言葉集を吊り下げ、ウゥーンなるほど。
   これは私への言葉だなぁ。と日めくりしています。

  
 「宗教なんてわからへんけど、毎日お天とうさまに手を合わせることしかできへん」
  
  ・・・母の言葉

   
仏門に入るとはどういうことですか?の問いに
   庶民が仏門に入る心構えは、
できるかぎり欲・執着を捨てる。
   僧侶として仏門に入る心構えは、
欲・執着を捨て去る。
   私は、まだまだ 捨て去る 境地には辿りつけていません。辿りつけないでしょう。
  
 欲・執着に極力固執しないそれを良しとするのが私の精一杯の生き方です。

   
次の、言葉をいただきました・・・
   
ネットでこのようなものを見ました。
   審理        本地仏
   
初七日      不動明王  書類審査、生前の行状が裁かれる。
   二七日      釈迦如来  三途の川を渡るところで裁かれる。死出の旅路の難。
   三七日      文珠菩薩  生前の邪淫の罪が裁かれる。
   四七日      普賢菩    秤を持って生前の罪の重さが決められる。
   五七日      地蔵菩薩  水晶の鎧に生前の行状が映し出される。
   六七日      弥勒菩薩  五官王の秤と閻魔王の鏡で再吟味する。
   七七日      薬師如来  最後の審判かくだされ、行き先が決まる。
   百カ日      観音菩薩   慈悲の心により修行の楽しさを教え、喜びに導く。
   ―周忌      勢至菩薩  無限の光明と知恵により、さらなる精進の道へと導く。
   三回忌      阿弥陀如来  ひたすら信仰に徹するという一念に導く。
   七回忌      阿閃如来  悟りや信心をより堅固なものに導く。
   十三回忌     大日如来   これまでの修行と悟りを点検し、さらなる悟りへと導く。
   三十三回忌   虚空菩薩  33年の長い修行を行い菩薩の世界に入り、
                    ご先祖様が守り神の仲間入りする


   
お坊さんは葬式のときに仏門へ入る証として(お金を受け取り)戒名を授け、
   亡き人が安心して天国へ導く役目としての導師として、送りとどけたのでしょう?
   なのに33年のあいだの審理において、裁判官としての菩薩や如来が判決を下す。
   これって、おかしいでしょう?仏式葬儀って死んでからの裁判への儀式?
   わたしのお母さんは目を閉じた瞬間に天国に往き、風となってき厳しく
   また、やさしくつつんでくれています。
   そう信じるのが母への供養(感謝)と思っていますが、
間違いでしょうか?
   
間違いではありません。何度も言いますが崇高でシンプルなお釈迦さまの
   教えである仏教に、父・母への感謝は説かれていますが、
   僧侶による、庶民の葬儀と死後の行事は説かれていません。

   世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい・・・お釈迦さまの言葉

   
宗教を必要としない生き方を心がける生き方が釈迦の教え(哲学)である。と思う。
   物事をなしとげようとする心の働き。気力をを与える哲学を説くのがお釈迦さまの
   弟子である僧侶であり、説く所が寺である。寺は死後の行事を説く処ではない。
   如何にして、
 という瞬間を一生懸命生き抜くこと(なしとげること)が
   大切である。ということを説くのが僧侶の責務である。
   
   
「過去を追わざれ、未来を願わざれ。
   およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたものである。
   また、未来はいまだ到達していない。
   そして、現在のことがらを動ずることなく了知した人は、その境地を増大せしめよ。
   ただ、今日まさにすべきことを熱心になせ」
・・・お釈迦さまの言葉

                  次回は そのE です
                  
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