良寛さん

   

  左の作品は先輩の作品を拝借。この方の葬儀をさせていただきました。
  右の作品も先輩の作品です。この方とはいつも孫自慢でした。
  いつも笑顔での作品は近所の子供たちにもあげておられたそうです。
正に良寛さんです。
「僧来たりて 学道の用心を問ふついでに、 示(じ) にいわく、学道の人は 
先づすべからく貧なるべし。財多ければ 必ずその志を失う。
在家学道の者、なほ財宝にまとはり、居所を貧(むさぼ)り、眷属(けんぞく) に
交われば、たといその志ありと云へども、障道の縁多し。
 ……………… (略)……………
僧は一衣一鉢のほかは 財宝を持たず、居所を思はず、
衣食を貧(むさぼ) らざる間、一向に学道す。
これは分々皆徳益あるなり。 その故は、貧なるが道に親しきなり」

自宅で仏教修行をしている一般の人も、財産に囲まれて、良い住まいを求め、
家族や親戚と交わっていれば、どれだけ高い志があっても、修行の妨げとなり、
修行にならないだろう。

これに対して僧侶というのは、僧は一衣一鉢のほかは財宝を持たず、居所を思はず、
衣食を貧(むさぼ)らざる間、一向に学道す。
これは分々皆徳益あるなり。 その故は、貧なるが道に親しきなり。

僧侶というのは、昔から一枚の袈裟と、 一鉢のお椀しか持たず、 自分の家を持とうと
思わず、衣食にこだわらない…ために、ひたすら修行に打ち込むことができる。
これはそれぞれ、利益を得る (俗世界のモノに心を奪われることがない)ところが
あるからである。 その理由は、貧しいことが道に親しめることになるのです」

修行する者は”道を求める”のが第一…”財”は修行の妨げになる。
財産を持っていると、失うまいと思ったり、 奪われまいと心配したり、
何かとわずらわしい心配事が増えてくる。
僧侶は必要最小限の物以外、何も持たず、持つ必要がないため、
精神的に安楽に居られ、 ひたすら修行一途に打ち込めるのです。

・・・以上道元の言葉と訳文をネットより拝借しました。


手鞠をつき、優しいまなざしで無邪気に子どもらと戯れ、誰からも親しまれる
良寛さんにはそんな好々爺のイメージがある。
それはしかし、町名主の家督も名利も捨て、雲水の一衣一鉢、托鉢の漂泊を経て
到達した境地である。
故郷の越後を後に、厳しい禅の修行に備中玉島へと旅立った求道者、
良寛の足跡を辿った。
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。
号は大愚。名は栄蔵。

良寛は、代々この出雲崎の町名主、現在でいうと町長と神主を兼務する
橘屋山本家の長男として、1758(宝暦8)年に生まれた。
良寛とは出家後の法号で、本名は山本栄蔵。幼少のころより、栄蔵は町名主の家督を継ぐ身として、読み書きそろばんを習い、寝食を忘れて読書に夢中になる
聡明な少年だったという。

13歳で、家から離れて江戸帰りの儒学者の学問塾に通って和漢の教養を深めた。
しかし周囲は、そんな利発な栄蔵を「名主の昼行灯息子(役立たず)」とからかった。
もともと、無口で人見知りの激しい内気な性格で、人とのつき合いが苦手な栄蔵の
姿は、周囲には愚鈍に映ったことだろう。
18歳で、栄蔵は名主見習いになるが、人間関係のいざこざに辟易し、一カ月半で家督を捨てて隣町にある光照寺 に飛び込んで出家してしまう。そして出家先の光照寺で、
栄蔵は生涯の師と出会うことになる。備中国玉島の曹洞宗・円通寺の住職、大忍国仙[だいにんこくせん]和尚だ。こうして良寛は故郷を後に、備中玉島へと旅立った。

玉島は倉敷市の西、瀬戸内海に臨む温暖な港町である。良寛が移ってきた頃は
備中松山藩の飛び地で、港には備中の各地からの物資が集散し豪商の蔵が並ぶ、
活力に満ちた豊かな土地だった。

和尚とともに向かった円通寺は、道元を宗祖とする曹洞宗の古刹で、禅の修行道場で
ある。玉島港から白華山に至る坂道を登って行くと、円通寺に辿り着く。
巨岩と竹林の池を過ぎると、正面に座禅堂の白雲閣、右手に本堂、その奥には高方丈[たかほうじょう](住職の居室)がある。
正面の左手には衆僧とともに良寛が寝起きした衆寮がある。現在は良寛堂と呼ばれ、
当時の佇まいを今に残している。
良寛はこの円通寺で12年間の修行に明け暮れた。

円通寺の修行の厳しさは本山の永平寺に勝るとも劣らぬほどといわれ、良寛がその寺風を国仙和尚に問うと、「一に石を曵き、二に土を運ぶ」と和尚は答えたという。
それはつまり、理屈や能書きを言う前にただ実践あるのみ。ひたすら坐禅をし、日常の労働に励む中に悟りの道があるというものだ。
円通寺ではまさに坐禅三昧の日々だったに違いない。だが、良寛にまつわる逸話は心身を厳しく鍛錬する修行僧とは別の一面だ。町に托鉢に出かけた良寛は、
貧相な身なりゆえ泥棒と間違えられ捕らえられた。だが、弁解は一切せず、厳しく問い詰められて、ようやく「この風体では疑われても仕方がない、私に責任がある」
と答えたという。

人は一旦疑われると何を言ってもなかなか信じてもらえないものだ。
だから、天運に任せる、つまり自然の成りゆきに任せたという。
良寛には別に「大愚」の称号があるが、それは愚者の意味ではない。
周囲には愚かに見えても、愚かさを超えたところに大きな悟りがあるというのである。
良寛が究めようとしたのは、尊敬する宗祖道元の教えだ。すなわち、人として四つの
節度に務めること。むさぼらない、慈しむ心、自己を抑制し、自分を偽らない。
それを一途に究めることは、傍目には愚かに見えるかもしれない。
ところが、師の国仙和尚だけは、良寛の内にある徳を見抜いていたのだ。
大愚の号を授けたのも和尚で、それは世間体や他人の目にまどわされることなく、
無心に我が道を究めようとする良寛への尊称であった。 

和尚は死の間際に、そんな良寛を枕元に呼び寄せて、印可[いんか]の偈[げ]
(卒業証書)と一本の杖を与えた。印可にはこんな漢詩が添えられていた。
「お前は一見愚のように見えるが、お前が得た道はゆるがぬ寛[ひろ]い道だ。
さあどこへ出かけても良い。到るところにお前の世界がある。
お前の性格に合った気ままな旅をつづけるがよい」。
良寛39歳。師を失った良寛は、寺に安住することを選ばず、説法もせず、
和尚の言葉どおりに授かった杖を手に、流れる雲のように托鉢の旅に出た。

円通寺を後に、杖と、一衣と一鉢だけで諸国をさまよう良寛の姿は、まさに「大愚」と呼ぶにふさわしい。野宿をし、人家の軒先で雨をしのぐという流浪のうちに、
良寛は自然と向き合い、詩を詠み和歌を詠い、そして粗末な紙に書をしたためた
。それは、孤独な貧しい生活に耐える修行であった。その漂泊の旅で、
良寛がひたすら求めたものは、理屈ではなく無心の実践という境地だ。

その足取りは不明な点が多く、残された和歌や自筆の『関西紀行』の一部から推察するしかない。玉島を後に、赤穂、姫路、高砂、明石と山陽道を東へと辿って、
須磨寺に至った。ちょうど梅の季節で、その時のようすを「梅の香りが墨色の衣に移るほど匂ってくる…」と、関西紀行の一節である「須磨紀行」に記している。

須磨から海辺に沿って、神戸、そして三輪(三田)、箕面の勝尾寺と迂回し、丹波路を
京都へと向かい、京都から南に向きを変えて大坂へ。
さらに足を延ばして奈良の吉野、紀州の高野山へと赴いた。
「吉野紀行」には、「里へ下り、粗末な家の軒下に立ち一夜の宿を乞う。夜具さえないので寝られずにいると、宵の間は老人が松の火を灯し、小さな籠を編んでいる。
何かと尋ねると、吉野の里の花筐という。吉野蔵王権現の散りゆく桜を惜しんで、
拾って花籠に盛るらしい。しみじみとした心打つ話なので、旅の土産にしよう」と
記している。

そこから、険路の熊野本宮、新宮へと旅をつづけ、やがて鈴鹿の険しい峰々を越えて、大津に出て、琵琶湖に沿って、彦根、長浜へと北上する。こうした行脚を
通じて良寛は、宗派を越えて先々に訪ねた寺院の高僧の説法に無心に耳を傾け、
ある時は西行や芭蕉など尊敬する先人たちの足跡を辿って、
自ら求める生き方の手がかりを一つ一つ見出そうとした。物事にこだわらず、自然にまかせるという境地にいたる求道であった。

そうして5年の流浪の後に、良寛は帰郷を決意する。北国街道を辿ってようやく越後に
帰郷した良寛だったが、実家は没落、父母もすでになく、出雲崎を通り越して
寺泊の海岸の塩炊き小屋を仮寓とする。やがて、国上山山腹の国上寺の五合庵で
暮らす。その後、近隣の庵を転々とするが、48歳で再び五合庵を居に定めた。
冬には深い雪で埋もれるこの質素な庵で、独りで12年を過ごした。

山を下りて時に托鉢に出かけ、歌を詠み書に親しみ、子どもらと遊んだ。
世の中の名利とは一切無縁で無欲と無心に生き、そして誰からも慕われながら
良寛は74年の生涯を終えた。残された慈愛に満ちた多くの漢詩、和歌、俳句の書は
今日も人々を魅了し心を打ちつづける。
それは、今日、失われつつある何か大切なものかもしれない。

花、無心にして蝶を招き、蝶、無心にして花を訪れる。
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉かな
迷いだの悟りだのということは知らん。ましてや名声だの利欲などは問題ではない。
すでに夜となり雨が降っているが 私はこうして 二本の脚をゆったり伸ばして
満ち足りている。

良寛の辞世の句
1831年に良寛は親しい人に見守られながら生涯を終えました。
その時、読んだ辞世の句が次の句です。
「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」
この句は、良寛が尊敬していた道元の次の歌をアレンジした歌です。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」
何の作為もなく、ただそこにある自然の美をありのままに受け入れる素直な気持ちを
詠んだ歌で、禅の「不立文字(ふりゅうもんじ)」の精神が根底に流れています。

不立文字とは禅宗の言葉で、教義の伝達は文字や言葉のほか、
「体験によって伝えるもの」が神髄であるという意味です。
・・・以上もネットより拝借しました。

「僧は一衣一鉢のほかは 財宝を持たず、居所を思はず、
衣食を貧(むさぼ) らざる間、一向に学道す(人の道を学ぶ)
これは分々皆徳益あるなり。 その故は、貧なるが道に親しきなり」

良寛さんは、この道元禅師の言葉を守り、人の道を切に生きられたのです。
悟りへの道は 無心の実践にある 僧でなく 俗でもなく 慈愛に生きる」を
貫かれたのです。


             次回は妻が認知症です

               ページのご案内