妻が認知症
2018年9月ころ、妻が楽しみにしていた友達と行く月1回の日帰りのツァーから
帰ってくると「きょうのバスは前の座席との間が狭くて、昼からは腰が痛くなって
トイレ以外はバスの中にいて見物は行かなかった」と言って、翌日からは歩くのも
困難になりました。
2階の妻の和室横にもトイレがあるが、這って行く状態が2か月は続きました。
私は3階の自室で寝起きしていたが、何か物音がすると下りて様子を見たり、
妻の行動の手助けをしたり、リハビリに付いて行った。
ベッドに臥すことが多くなり、ウツの症状も出始めてきたのが伝わって辛かった。
年末になると娘と孫と嫁が集まり妻の指揮?のもと「おせち料理」をつくるのが
恒例であったがその年はデパートから子供たち家族への「おせち」を贈ることにした。
年が明けてからは寂しくなると、娘と長男・次男へのメール・電話が多くなってきて、
子供たちからは「お母さんからメール・電話があったけど内容が掴めない」との
連絡がくるようになりました。
子供たちが「いま、良い薬があるから病院へいくのがいいよ」とすすめると
「お母さんを病人扱いにして」と言ってふさぎ込んでいたが、7月4日に私が幼稚園の
門番さんのアルバイトから帰ってくると
「今日、病院へ行って来た。何か血液検査をしたけど2週間後に、お父さんも一緒に
来て下さいと言ってたよ」と言ったので「どこの病院?誰に教えてもらった?」と問うと
「○○病院だけど誰に教えてもらったかはわからへん」と答えたので
「病院へ行ったことはいいことだ」と言った。
そして2週間後に二人で病院へ行って伝えられたのが
「奥さんはAPOE遺伝子型アルツハイマーで6段階の一番上で、進み具合は軽症の
人の約12倍です。でも、薬をきちんと服用すると進行を抑えることができますよ」
の答えだった。それを聞いたときの妻の落胆ぶりは忘れない。
そのあとのひと月ほどは「死にたい。死んだら楽になれる」と言い続け、
それを聞くときは辛く、可哀そうに思えた。
子供たちと、妻の姉兄、友達、そして私の姉妹にも診断結果を連絡すると、
皆から「何か話が合わないなぁと思っていた」とのメール・電話があり、
三人の母親である姪は泣きながら「おばちゃんがかわいそうや」と言ってくれた。
それまでの妻は日曜日は近くのスポーツセンターで1q泳ぐのを楽しみにして、
「(女優の)吉永小百合さんも、泳ぐときは1q泳ぐんやて。負けておられへん」
が口ぐせだった。また、盆踊りが好きで夏になると盆踊りのハシゴ。
年末の「1万人の第九」に16回ほど参加していた。
そして、区の緑化リーダーとして地区の施設などの花壇の手入れに励んで、
当時の大阪市長・橋下徹から感謝状を贈られたときは嬉しそうに
「橋下徹さんは私の高校の後輩やねん」と言って、また頑張っていた。
妻にとっては橋本氏の政治姿勢などはどうでもよく、ただ高校の後輩だけのこと。
それらがダメになり、現在の妻の状態は、一日にソウとウツの繰り返しで、
明るいときは本当に朗らかだがダメなときは寝込んでいる。
でも、子供たち、そしていろんな方からの応援と励ましに感謝しています。
私は、食事をつくるのは苦手ですが、掃除は苦ではなく、洗濯も洗濯機まかせで
OK。なので、日常生活は今のところ支障はありません。
食事は少し前までは妻が自分の好きなものと私の夕食は作ってくれていたが、
症状が進むにつれて、いつからか料理の途中で
「なにを作ったらいいの?なにを作ってるの?」と言うようになってきてからは、
私の三食は自分で料理したりコープで取り寄せ、妻も好きなものを買ってきて
食べているが、同じものを買ってくるのが心配だ。
*妻は料理は得意で、時間をかけて作ったのを色んな器に盛って出してくれた。
そのことを思い出すと・・・
元気なときは電動自転車で買い物に行くことが楽しみみたいな感じですが、
帰ってきたら何処へ行って来たのか、何を買いに行ったのか、メモ書きどおりの物を
買ってきたのか。と頭が混乱して暫らくソファーで横になることが多くなってきた。
娘が小学5年の子に「みまもり君・BoT」というGPSを持たしているので、
お母さんにも、と言って手続きしてくれました。
一番不安なのは徘徊なので、妻が買い物に行くときには持たせています。
時々、持って行くのを忘れることがあるけど、出来るだけ、妻の自由な行動を認め、
「物忘れはだれでもあるよ」と言って、忘れたことを聞き出さず、何かあると直ぐに
対応できるようにしながら二人の暮らしを楽しんでいければと思っています。
5年間はお世話になろうと思っていた幼稚園での門番さん勤務だったが、
4年半を経過したころから妻が私を探しに幼稚園に来るようになり2020年11月、
園長先生に辞めることを伝えた。
辞める当日、園長先生と30人ほどの先生たちが立ち上がって「ご苦労様でした」と
言ってくださったことに只々「ありがとうございました」と言うのが精いっぱいでした。
辞めてからも近くのスーパーで私を見かけた園児が「あぁ、おじちゃんだ」と言って
くれると、お母さんが「急なことでびっくりしました。いつも可愛がっていただいて
ありがとうございました。奥さんを見守ってください」と言われたのをありがたく
思いました。
2021年7月、妻が「病院に行くの嫌だ」と言い出したので「行かなくていいよ」と
伝えると、以前の朗らかさが戻って来た・・・
嫌がることと物忘れを強く指摘しないことがいいのだと分かった。
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妻よりは、1分1秒でも早く死にたいと思っていた。
しかし妻の認知症を機に、妻よりは1分1秒でも長生きしなくては。
と願っています・・・2021年9月16日、記す。
次回はブッダの説く「死」とはです
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