何でもメモ・8 青字は私の言葉です
ほどよい・・・
ほどよい季節。ほどよい付き合い。ほどよい希望。ほどよい欲。ほどよい愚痴。
等々「ほどよい」は他にもあるが、私はこの「ほどよい」を超え、欲に走ることが多い。
*私にとっての「ほどよい季節」は
春先から5月末と、10月ころから秋の気配が感じられる11月末。
さて、今回もネット他で見かけた文をUpします。
ユダヤもキリストもイスラムも元は同じなのに何故これほどまでに 命が失われるのか…
聖地→それは宗教にとって、「神」と大きな関わりを持つ場所。
世界には数多くの宗教があり、それぞれが聖地を持っているわけですが、
実は世界に一箇所だけ、複数の宗教が『わが聖地だ』と主張している土地があります。
それが「エルサレム」です。
ここは「ユダヤ教」「キリスト教」そしてさらには「イスラム教」という3つの大きな
宗教が「聖地だ」と主張している場所です。
その為に、この聖地をめぐって幾度となく争いが行われてきました。
では何故このエルサレムに対立する、3つの宗教の聖地が重なってしまった
のでしょうか。
実は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、元をたどればいわば唯一の、
そして天地創造の神を信じる宗教なのです。
3つの宗教の信じる「神」が同じならば、その宗教にとっての「聖地」が重なって
しまうのは、いわば当然の成り行きといえるのでは?
何度か言いましたが宗教とは所詮、人間が考え出したものです。
それゆえ、自分たちの宗教が正しいという主張のもとに、新しい教え(宗教)を排他する
ということは必然です。その主張を押しとおせなくなったとき、敗者と成る。
だから、ひとつの事柄に執着して争うのです。
ブッダ=お釈迦さまの教えは宗教ではありません。神の教えではありません。
僧侶による葬儀の教えではありません。自己形成としての哲学です。
*葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって
発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。
それゆえ、それを避けることなく正面から取り上げ、反省し、よりよい形態を考えてゆく
ことが必要ではあるまいか。人間の生死の問題を戒名料いくらなどという金の問題に
還元し、それに頬かむりをして高尚な理屈を弄ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、
私には思われない。私も同じ思いです。
*上を見てはいけないし、下を見てもいけない、でも周りは見るべし。
何かの信者になってはいけない。優しくてもいいが弱くはなるな。
努力をする者は夢を語り 努力をしない者は不満を口にする。
*仏教は生(命)を受けて死に至るまでの 活き方、活かし方の指針であり、
見も知らぬ死後の世界を説く教えではない。
自分に問いかけ 他の人の意見に耳を貸し 試行錯誤して 活かし生かされるかを
自身に問いかける。
*誤りを悔い 実得(じっとく)をかくして 外相をかざらず 好事をば 他人にゆずり
悪事をば己にむかうる志気(しいき)あるべきなり『正法眼蔵随聞記』
「仏作って魂入れず」の例え通り、自らも外見にばかりとらわれて内面を飾る努力は
とかく 忘れやすい。電車に乗っても席を譲るどころか、人をおしのけても座ろうと
する始末。好事を他人に譲り、苦事をなすことは意外と難しいものである。
「耐えてこそ真の生き甲斐が生まれる」という。
まず人のことを思いやる心をもちたいものである。
*得道(とくどう)のことは心をもって得(う)るか 身をもって得るか『正法眼蔵随聞記』
道元禅師は、「仏道は心で覚えるのか、身体で覚えるのか」ということにたいして、
「身をもって得る、体で了解する」と断言しておられる。
表面的な字づらを理解するばかりでなく、なにごとも実行に移し体得し、
そこに体験のもつ重みが生まれるのである。
*人と諍談(じょうだん)するは 自他ともに無益(むやく)なり『正法眼蔵随聞記』
人は感情的に「ああいった、こういった、どうも気にいらない」と、なにかにつけ
言い争う。 自分の長所は過大に評価するが、短所は過小に見えるのが常である。
「からの容器ほど大きなおとをたてる」ことを肝に銘じ、道元禅師のお言葉を
味わいたいものである。
*かならず非器(ひき)なりと思うことなかれ 依行(えぎょう)せば必ず証をうべきなり
『正法眼蔵随聞記』
人間は、自分の能力が劣っていることを口実に、いたずらに嘆き悲しみ、
はては「前世の因縁が悪いから」と卑屈になったりもする。
しかし、人間のすべてを決定的に運命づける過去世の「悪しき業」
などというものはありえない。
世に「大器晩成」という言葉もある。自ら卑下することなく地道に努力すれば、
必ず報われるものである。
「困難から逃げようとする心が、また新しい困難を作り出す」ことを肝に銘じたい。
*日本語の『すみません』は深い意味があり
『これでおわったのではなく、必ず償いをします』の思いがこめられているのだと
聞いたことがあります。つまり、反省するということは、その償いをしなければ
ならないと言うことです。
口先だけでは無く心をこめ、償いの思いを込めてこそ、ようやく済むと言うこと
なのでしょう。
人として決して忘れてはならない行いだと思います。
心して「すみません」とつかいましょう。
いい言葉です。激しく気づかされました。
*二千五百年前、お釈迦様は八十歳で亡くなられるまで生涯この社会の意識変革を
人々に説き続けられたのだが、今もなお、全く実現されていない。
さて二千五百年後の現在の日本社会はどうであろうか。インドで興った仏教は日本で
花開いた。しかし、現状の日本社会は「物で栄えて心で亡ぶ」で、表面的にはインドとは
全く違う社会のように思われても、民衆と共に苦しみを救おうという宗教本来の姿を
失いつつある。日々報ぜられる目を覆うばかりの事件をみるにつけ、
日本仏教もインド同様に、いつか亡ぶのではないかと危惧する。
寺・僧侶の責務は、心の悩みから生じる悪しき心を起こさせないようにすることである。
普く人々を灯りの見えない世界から救い上げる・・・これが大乗の教えであぅて、
葬儀以外は寺に閉じこもり、話すときは「死後の世界」では無い。
ましてや、僧侶を職にしてはいけない。
*私は出家する時悩み苦しむ人を助けたいからだと思ったが、生易しい事で人を
助けることなど出来ないのだ。その覚悟がこの道へ進む第一歩だと気付かされた。
このような心がけをもつ僧侶がおられるんだ。お会いしたい。
*人間は寝貯め食い貯めが出来ないと同様に、修行貯めも出来ないのだ。
幾ら過去に血の滲むような修行をしていたとしても、空中に文字を書くようなもので、
側から消えて無くなる。だから常に雲水修行を忘れず続けて行かなければならないのだ。
これが実行されてこそ無相大師に対する真の報恩底となるのである。
*仏教とは単なる信仰ではないのだ、ということをお話する必要があります。
それは何よりも生き方なのです。
私達が仏陀の教えられたとおりに生きるかを実践する努力の姿勢に、
私たちが何を信じているかなどはほとんど重要ではありません。
薄学による、つまらぬ説法はいりません。ネット他で「仏陀の言葉」に触れて下さい。
次回は そのH です
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