何でもメモ・9 青字は私の言葉です
*空海・秘蔵宝鑰
「法はひとに資(よ)って弘(ひろ)まり、人は法を待って昇(のぼ)る。
人法(にんぽう)一体にして別異(べっち)なることを得ず」
信用というものは、他人がその人の全人的行動や実績を見たうえで、正直に判断を
下してくれる・・・信用される人になりなさい。
*親鸞
「邪見驕慢の悪衆生、信楽受持(しんぎょうじゅじ)すること甚(はなは)だ以て難し」
ひとの外見はある程度の目安にはなるが、それだけでひとの価値を即断するのはきけん
であり、そうすることによって、かえって、本人の品性の貧しさを相手にさらけ出すような
ものである・・・他人を見下さない。
*親鸞は「己とは愚かなり」と悟りきった・・・
私(親鸞)は自力で生きようとする心は露塵(つゆちり)ほどもなくなった非力なる者で
あるが故に、自力を捨てた。
捨てようとする心も自力だから、それをも捨ててすべてを阿弥陀仏の力”絶対他力”に
ゆだねることで救われると心に決め信じ切ったこと”信心決定”で弥陀の本願に
帰り着いたのです”捨自帰他(しゃじきた)”。
親鸞は「仏道とは自己を学ぶ(知る)ことであり、自己を忘れること」に徹したのです。
*親鸞
「超世稀有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して
遅慮(ちりょ)することなかれ」
どんな人からも何か得るところがある。ひとの意見に耳をそばだて、その良きをとり、
悪しきを捨てる判断はまずよく聞くところにある・・・意見を聞き入れる。
*一遍
「生ぜしもひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり。
そいはつべき人なき故なり」
一遍は弟子たちに、自分の死後の処置について
「仰々しい葬儀をしないこと。死骸は野に捨て獣に食べさせること。
信者から墓所の申し出があつたらまかせて手をださないこと」を遺言としていた。
鎌倉時代の浄土教の祖師たちは、親鸞や法然にしてもおしなべて同様の遺言をしている。
鎌倉時代の祖師たちは、仏教と葬儀は無縁のものである。
だから拘ることはない。と説いている。
*道元
「中々世智弁聰(せちべんそう)なるよりも、鈍根(どんこん)なるやうにて、
切(せつ)に志(こころざし)を発する人、速やかに悟(さとり)を得るなり」
肩書や知名度はその人物をはかる一応の目安にはなるにしても、そうした先入観が
裏切られることもあることを承知しておかねばなるまい・・・先入観を捨てる
坊主に僧階などは無用のもの。
*道元
「機を見て作す、いまだ是(これ)、好手(こうしゅ)ならず。
身を現じて構ふ、肯へて承当(しょうとう)せず」
善人ぶったり、知ったかぶりの薄学を垂れ、自ら壁を作る者は真の尊敬を得られない
・・・道元はあるがままの姿で出家者として生涯を送った。
*道元
「私=生きている=時間=世界。皆一つ」
私以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは私が生きる、
生きているということである。
仏教者の時間論…私がこの世界の中で生きていて、そこに時間の経過がある。
実際に目の前の相手を救えるかどうか、仏教者が真剣に向き合わない限り、
日本仏教に仏教は存在できない・・・ネットより
檀家さんの救済だけが、大乗仏教の目指すところではない。
次回はその10です。
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