つれづれメモ・4

 
      
     白衣観音

  大阪・メイシアターに出展しました。
 お釈迦さまは言われた。
 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 
 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 
 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
 無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至 無老死 
 亦無老死尽 無苦集滅道無智亦無得 以無所得故」


 お聞きなさい、
 「観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行ずる時、
 五蘊は皆、空と照見して 一切の苦厄を度したまえり。
 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、
 色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識もまた是の如し。
 舎利子よ、是の諸法は空の相にして、生ぜず滅せず、
 垢つかず浄からず、増えず減らず、
 是の故に空の中には色は無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も
 無く、色声香味触法も無く、眼界も無く、乃至 意識界も無い。
 無明も無く、また無明が尽きることも無い。
 乃至、老死も無く、また老死が尽きることも無い。
 苦集滅道も無智もまた無得も無い。
 無所得を以っての故に」となるのです。

 ネット等で「般若心経」を読み、調べて下さい。
 そして、
「空=なんのとらわれもない、こだわりのない心の状態」
 であるがゆえに、生きていくには全てのことに「囚われること無かれ。
 執着すること無かれ」を胸に刻んで人生をポジティブに向き合って
 自分を活かし・生きてください。

 私は、見知らぬ世界を説き、死後の行事に翻弄される日本仏教
 よりも、何ごとにも囚われることなく日々をシンプルにポジティブに
 活かし生き抜きなさいと教える
 
「本来の仏教=釈迦仏教」に魅かれます。

お釈迦さまは言われた・・・
「この世の一切(すべての現象や存在)は縁起により成り立ち(因縁生起)、
永遠のものなどなに一つなく生滅変化している。諸行無常であり、我に帰する永遠の
ものなどは何ひとつとしてありえない。
自分の命も財産もすべて自分のもののようであって自分のものではない。諸法無我である。
そして一人では生きていけない。
他の人とのご縁によって自らを活かし、生かされているのです。
これらを見徹すことができればすべての執着心から解き放され、繰り返される輪廻から
開放され、揺らぐことのない心安らかな境地である涅槃(ねはん)に至りことができる」と。

「あなたこそあなたの主(あるじ)である。
   あなたの他に だれが あなたのあるじでありえようか」と。

自灯明 法灯明・・・自分を灯りとして、自分をよりどころとして生きていきなさい。
    法(真理)をよりどころとして、他のものをよりどころにしてはいけない」と。

   
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宇宙・天体に興味が湧いてきました。明日(2022年8月19日)は月が火星に最も近づきます。
天気がよければ堤防に上がって見に行こう。
それは、さておいて。1光年とは光が1年間に進む距離。
光は1秒間に地球を7周半(30万q)も進んで、1年間に9兆4605q進むことになる。
その距離を時速300`の新幹線で到達するには
361万年かかる。
この時点で私の頭はメチャクチャ。さらに北極星までの距離が
400光年、アンドロメダ座までの
距離は
200万光年・・・もう深く考えんとこ。
             
*「出家=第二の人生」という素晴らしい言葉に出会いました。
出家とは、宗教的な目的をもって、世俗生活を捨てることを意味する。
そこには、家を捨てるという悲壮感、あるいは、隠遁・逃避という暗いイメージは拭いきれない。
ところが、インドにおける「出家」という言葉の原語(pabbajita)の語源には、家を出るという直接の
意味はなく、それは“積極的に前に進むこと”という意味である。
ブッダは、王子としての栄華を極め、結婚をして一子ももうけたが、老・病・死という人間として
どうしても避けることのできない現実を直視して、29歳で出家した。
すなわち、ブッダにとって出家とは、目的をもった第二の人生への積極的出発であり、
家を出ることはその一つの手段であった。
インドでは古来、アーシュラマと称して、人間の一生を学生期(学問・技術・祭祀等の修得)、
家長期(生業に励み、家族を養い、社会的活動をする)、林棲期(家督を譲り、森で修行する)、
遊行期(巷を歩き、人生の道を人に説く)の四期に分けて、これに従う人生こそ最も理想的な
生涯教育のあり方であるとされていた。
そして、人生後半の林棲期と遊行期(わが国では老年期に当たる)の人が最も高く評価され、
尊敬を受けていたのである。
ブッダは、その遊行期の出家者の神々しい姿にひかれて、出家を決意したと伝えられる。
このブッダの生き方は、現代の豊かな物質文明を誇る高齢化社会における人間の生き方に
大きな示唆を与えてくれる。
出家という言葉の本義が、第二の人生への積極的再出発であるとしたら、たとえ家を出るという
形態はとらなくても、自分の人生を真剣に考えて、新たな生き方に気づいたとき、その人の人生の
新たな再出発になるということである。
そのことが現代社会における出家と考えられないであろうか。
最近、大学でも、人生とは何かを改めて問いなおし、有意義な余生を送ろうとする中・高年の学生が
目立つようになった。
多くの若い学生たちの中にあって、彼らの目は、誰よりも希望に輝いている。
私は、人生の一番円熟した時機に、なおそこで新たに自分の人生を問い正し、研いていこうとする
彼らの姿に感動を覚えるのである
・・・吉元信行(よしもとしんぎょう)(教授・仏教学)
2021年6月に後期高齢者の仲間入りをしました。
若い人たちのおかげで年金生活を送らせていただいていることに感謝して、
命ある限り「人生是学習なり」を胸に刻んで第二の人生を謳歌して行こう。


「僧侶」とは、宗教的な目的を持ち、世俗生活を捨て、出家して仏門に入り修行をしている人を指します。
 果たして「世俗を捨てた出家者」と名乗れる僧侶って居てる
・・・ネットより。

仏教の祖・お釈迦さまは自分の教えを「宗教」として遺されたのか?
私は、宗教を必要としない生き方を心がける生き方が釈迦の教え(哲学)である。と思う。
物事をなしとげようとする心の働き。気力をを与える哲学を説くのがお釈迦さまの
弟子である僧侶であり、説く所が寺である。寺は死後の行事を説く処ではない。
如何にして、いま という瞬間を一生懸命生き抜くこと(なしとげること)が
大切である。ということを説く所が寺であり、説くのが僧侶の責務である。
日本の仏教が葬式の時にのみ必要とされる「葬式仏教」となっていることを悲しみます。
しかも、受け取った金銭で家族を養うとは・・・


*檀家としか目を合わせることしか出来ず、実際に目の前の心の病を持っている相手を救えるかどうかを
 仏教者が真剣に向き合わない限り、日本仏教に仏教は存在できない
・・・ネットより

*日本仏教は「大乗仏教」です。
その根本思想は「忘己利他
(もうこりた)、己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」
であり、己はさておいて普く人々を救うことです。


「宗教法人の免税の穴埋めは庶民の血税である。ということを理解できない僧侶が
 大乗仏教を説くのは片腹痛い」
・・・ネットより。

某寺の住職が
「寺に固定資産税をかけたなら、日本の寺の9割はつぶれる」と言われたが、
「形あるものは永遠ではない」というのが、お釈迦さまの遺訓だよね。
寺がなくなっても、お釈迦さまの説かれた
真理真の仏教徒によって語り継がれてゆきます。

「密厳院発露懺悔文(みつごいんほつろさんげのもん)」より・・・
 「名を比丘に仮って伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く」
 
僧侶の名を借りて寺院を汚し、僧侶の格好をしてお布施をもらう。
 (僧侶の名を借りて寺院を我が物とし僧侶の格好をして、お布施と称した寄進を
  檀信徒から躊躇なく受け取る)

  
「遊戯笑語して徒らに年を送り 諂誑詐欺して空しく日を過ぐ」
 
遊び回って、無駄話や他人の悪口、嘘をつき、善行は積まず悪行をなしているうちに
 空
(むな)しく日は過ぎていく。
(見知らぬ死後のことを、さも見てきたように語り、そのときだけの心にもない言葉や、
 陰で布施の多寡で差別している間にむなしく日は過ぎていく)
 このような寺・僧侶がいないことを願うとともに、
全ての僧侶が、お釈迦さまはなぜ我が子に「ラーフラ」という名を付けたのかを解るまで座して欲しい。
       *子がいなければ寂しい。いれば気になる。しかも、死ぬまで。


*そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし・・・相田みつを

*2020年から、島原半島・天草・平戸・生月島を訪ねてのB6版エッセイ?小説?
 を綴っています。
 これらの所は、日本史に於いても日本仏教史に於いても重要な地域です。
 実在した人物と架空の人物を登場させて綴っています。
 200頁目標で、2022年8月20日には185頁まできました。
 200頁を少し超えるかもしれませんが最後の仕上げのため暫らく休みます。


             2022年12月1日、姉夫婦を語るをUPしました

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