そのときの人と物事と言葉との出逢い
・1

           その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある
              人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの 
           それは人と人との出逢い そのときの出逢い
・・・相田みつを

10日ほど前に先ず妻が風邪気味に、その2日後頃から私も同じ症状。
寒気と頭痛が今日1月17日になっても治らない。
その間に私は2回風呂に入に入り、食欲もまあまあだが妻は殆んど寝たままで心配だ。
娘と姉から電話をもらい、症状を話すと「コロナかも知れないから救急車を呼んだら?」と心配してくれた。
「高熱でもないし、寝ている。うつったらアカンから来なくていいよ」と告げた。
昼から少し症状が治まってきたのでパソコンに向かう。
パソコンの予定表を見ると2月19日は母の祥月命日、毎年母の命日に父の法事も行っている。
26日は義兄の一周忌と続く。

1月18日、目を覚ますと微熱・咳・寒気の症状がほとんど治まった感じだ。
さて、6月9日で喜寿を迎える。
いつも思うところだが私の歩んで来れたのは、そのときそのときに出逢うことができた人たちの
お陰であることを心に留めおかないといけない。ということだ。

独生 独死 独去 独来(どくしょう どくし どっこ どくらい 『仏説無量寿経』より
「人間は、生まれてくるのも独り、死ぬのも独り」である。
正にそのとおりである。
しかし、生(命)ある間に私たちは他の人とのつながりがなくては生きていけません。
そのつながりの中での、そのときそのときに出逢った人たちがいまの「私」にして
くれているのです。

私たちは一生の間に多くの人とのつながり(巡り合わせ)を持つのですが、その中には
善き人もいれば悪しき人もいます。
その時に心がけなくてはいけないのは、ブッダが言われた「言葉ではなく、その人の行動を見よ」です。
そして、善き人に巡り合えないときは焦ることなく独り静かに歩むことです。
「孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように」・・・ブッダ。
その姿を見た人の中に、必ず声掛けをして行動のアドバイスをしてくれる人「善友」が現れるのです。
その人との出逢いが
その人の人生を 根底から変えることがある
          人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆく
のです。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝起きて歯を磨き顔を洗ったあと、一年を通して冷蔵庫で冷やした缶コーヒー・モーニングショットを
飲みながら購読している新聞の「朝の詩(うた)」・「朝晴れエッセー」・「家庭欄」を読むのが
私の一日のスタート

妻や娘から「糖分が多いから控えるのがいい」と言われると、何年も前に百歳を超えたおじいさんが
テレビで「長生きの秘訣は?」と聞かれて「酒とタバコ」と答えていたのを引き合いにして
「缶コーヒーは若いときからの好物で、身体が欲しているから大丈夫。一日一本と決めている」と反抗?
一日一本は本当で、ニ本は飲めないし欲しくない。


1月6日の家庭欄に「ひたむきに 包丁研いで2202本」という記事が出ていた。
令和2年4月、小学6年生のときにコロナ禍で小学校が休校。することなしで暇を持て余していたとき
「今僕ができることは何だろうと探し、5年生のときに長野県に山村留学して刃物研ぎを習ったのを活かし、
包丁研ぎがいいかも」と思いつき、手始めに自宅の包丁を研いだところ母が「よく切れるようになった」と
喜んでくれたのを機に、近所の高齢者施設を会場にしてボランティア包丁研ぎを始めると、近所から
次々と依頼が舞い込んできて中学2年の今、2202本を研ぎ終えた。
「冒険家になって自転車で世界を巡り、世界中の人たちに包丁研ぎを知ってもらいたい」
という彼の将来の目標は1万本を研ぐこととか。

1月20日の朝の詩は「雪がとけると水になるという人より、雪がとけると春になるという人でいたい」
「水になるという人は、知ること・わかる人であり、春になるという人は気づくこと・感じる人である」

包丁研ぎの少年では、そのときの物事との出逢いを。雪がとけるでは、投稿者の物事に対する
感受性との出逢いに巡り合えた・・・ 

*市井の人たちの言葉はマニュアル化された僧侶の話ではなく、
  庶民の暮らしに於いて溢れでる真の法話です。

「ええことをしとったら ええ人生がおくれる あたりまえのことや」
(良いことをしていると 良い人生がおくれる これは あたりまえのこと)
「わるいことしとったら ええ人生おくられへん あたりまえのことや」
 
(悪いことをしていたら 良い人生はおくれない これは あたりまえのこと)
「自分の器を知らなあかん 自分の器以上のことをしたら 自分の首をしめる。
 器の中が一杯になったら こぼれるだけや。自分の器を知らんとあかんで」

・・・母の口ぐせだった。

悪を「軽んじる」者は悪の前に滅びる。

水が一滴ずつしたたり落ちるように悪を重ねれば、やがては悪で大きな水瓶をも満たす。
もちろん、善についても同じである。

「一夫(私)は すぐに しゃない(仕方ない)と言うけど ほんまに(ほんとうに) 
 しゃないもんは(仕方ないものは) しゃないなぁ(仕方ないなぁ)」
・・・母の言葉
私たちの言う「諦める」は、見込みがない・仕方がないなどのマイナスイメージで使われることが多いと
思われるが、本来は「物事をつまびらかに(詳しく・明らかに)みる、(明らかに)聞く」という意味です。
物事の本質、意味を明らかに見通すことが出来れば前進も出来、反省も出来るのです。

平成7年(1995)1月17日5時46分、阪神淡路大震災が発生。
その5年後に大阪市都市計画道路拡張事業に協力のため店を閉じた。
お世話になっていた会計士は、1990年に法人登録を進めてくれ、震災後に自主廃業の選択を
促してくれました。
そのお陰で夫婦とも、多くもなく少なくもない年金を頂いている。ありがたいことです。
その会計士さんは
家(うち)は浄土真宗だ。真宗の教えは臨終即往生だから門徒は命尽きれば阿弥陀さまが迎えに
来てくれて極楽浄土に連れて行き、浄土に生まれ返して下さっている。
だから両親の葬儀では坊さんは呼ばずに、子供の頃から爺さん婆さんの横で唱えていた
正信偈
唱えて家(いえ)から送り、家族で済ませた。死亡届、斎場手続きは知り合いの司法書士がやってくれた
と言っていた。
今になって臨終即往生の意味が解りました。
そして「坂本さんは倒産ではない。都市計画協力による自主廃業や。
倒産と自主廃業では意味が違う。恥じることは無い」の言葉がなかったら
「親父から受け継いだ店を潰すわけにはいかない」の思いに縛られていたかも。

                    次回はその2です
         
                     ページのご案内