そのときの人と物事と言葉との出逢い・2
その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある
人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの
それは人と人との出逢い そのときの出逢い・・相田みつを
自業自得と弁(わきま)えよ・・・
「錆は鉄より生ずれど、その鉄を傷つくるが如く、穢れある人は己の業により悪処に導かれん」
・・・法句経(ダンマパダ・第二百四十句)
「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪しき思いが出て来るからである。
淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、食欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、放漫、無分別など、
これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。(マルコによる福音書7章20~23節)」
・・・曽野綾子著「私を変えた聖書の言葉」
だれうらむことはない 身から出たさびだなあ・・・相田みつを
道徳を説かない。説けない寺・僧侶
道徳→道・すなわち、してはしてはいけないことと、徳・すなわち、すべきこと。をさて置いて
宗祖が戒めた葬儀・死後の行事に携わることを君は金銭授受によって正当化していないか?
荒んだ世の中の原因は「道徳」を説かない・説けない風潮にあるのでは?
であるから、寺・僧侶は仏教を根底においた道徳を自分の言葉で説く責務がある。
色衣に金襴の袈裟をまとい、読経や諸々の法会をしたからとて、
荒んだ世の中や戦争などが治まるのか?
僧侶が仏教の本質を知った上での道徳を説く姿勢を示したならば、
それが庶民の心に響き、庶民の灯りとなるだろう。
でなければ、庶民は道徳を真面目に守る気持ちになれない。
だから、「自由には責任が伴う」という道徳を守れない人たちの多いことか。
生きた言葉を使いなさい
言葉は人の心を癒しにもなれば、人の心を傷つけることもできる。
教科書の言葉を丸暗記で話しても生きた言葉ではない。
生きた言葉は人々を活かすこととなる。
僧侶が先人の遺訓や経典を読み漁っても、実践が伴わなくては生きた言葉ではない。
アノネ がんばんなくてもいいからさ 具体的に動くことだね・・・相田みつを
ご先祖がどうの、法事がどうの。は生きた言葉ではなく、化石のようなもの。
君は常に自分のしたことに「?」をつけられるか。
人がどうこうではない。君は成すべきことを成したのか? 成さなかったのか?
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ・・・法句経(ダンマパダ・第五十句)
君は何をするために僧侶になったのか?
葬儀をするため?法人(寺)の従業員として?生活の為?
教科書どおりの説法するため?自分の言葉で道徳・人生訓を説き聞かせるため?
修行とやらを終えたあと、仏教と程遠い葬儀で家族を養い、寺の庭番と寺宝の守り人と
なるために僧侶になったのか?・・・ネットより
お釈迦さんはどうして我が子に「ラーフラ(さまたげ)という名をつけたのかな?」
との知人の問いかけに・・・
ブッダの出家前の名は悉達太子と言った。悉達はサンスクリットのシッダールタの音写で、
悉多、悉達多とも言い、太子とはブッダは釈迦族の王子だったので、太子と称する。
シッダールタ太子は29歳のとき、これから出家して全ての人に必ずやってくる老いと病と死を超える
道を求めたいと思い、出家を覚悟したがその直前に妻・耶輸陀羅(ヤショーダラ)が息子を生んだ。
それを知ったシッダールタ太子は「さわり、さまたげ、束縛する者」という意味の
「ラーフラ(羅睺羅・ラゴラ)」という名をつけた。
シッダルタ太子にとって我が子の誕生は、その道を妨げる者と捉え、已むを得ず「ラーフラ」
と命名したのです。
これを聞いたシッダルタ太子の父である浄飯王(シュッドーダナ)は
「本当によかった。これで太子も子供に愛着を起こし、ラーフラが束縛となって出家を諦めるだろう」
と喜んだ。しかし、シッダールタ太子は何故、息子を妨げとしたのか?
それは我が子ができれば、その子を溺愛し、執着し、心配するがゆえに「求める道」に辿りつけない
と思ったからである。
その思いを
わたしには子どもがいる、財産があると思うがゆえに 愚かな人は 憂いをいだく
しかし自分ですら すでに 自分のものではないのに まして どうして 子どもが自分のもので
あろうか どうして財産が自分のものであり得ようか・・・法句経(ダンマパダ・第六十二句)
とブッダは私たちに説き聞かせている。仏教は徹底して無執着を説く。と答えた。
知人曰く、うちに来る住職は聞いていないのに必ず自分の子供の自慢話 をしてから帰る
パソコン日めくりに打ち込んである私の座右の銘
*ちょっと待て・調子にのらない・出来ない約束はしない*
母の座右の銘=口ぐせ
*自分の器量を弁えて、おかげおかげの げ で暮らさなあかんで*
いい人をやめれば楽になる・・・曽野綾子 そうですね。いい人を演じればアラがでる。特に私は¡
自分の言葉や行動に偽りが無かったか・・・
「論篤是與、君子者乎、色莊者乎」
論(ろん)の篤(あつ)きに是 (こ)れ与(くみ)すれば、君子者(くんししゃ)か、色荘者(しきそうしゃ)か
・・・孔子
言葉だけでは本当に立派な人であるか、弁舌が上手い人であるか、うわべ飾りな人かは区別がつかない。
言葉は相手の取り方次第だが、行動は誰の目から見てもわかる。
だから、自分の言葉や行動に偽りが無かったかを常に直視することを心がけなくてはいけない。
「只、教義に頼った建前論で自分の弱みを飾り立て、実りのない口先だけの議論を、もっともらしい
顔つきをして展開する者がどれほどはびこっていることか」・・・志村 武・著「釈迦の遺言」を参考
次回は その3 です
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