そのときの人と物事と言葉との出逢い・7
その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある
人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの
妻は中学1年を迎えるときに引っ越ししてきたあと、訳あって一年ほど親戚に預けられた。
親戚のおばさんは優しい人で可愛がってくれたが商売を手伝っていたので昼ご飯を時々忘れられたとか。
そのとき、縁側に座り雨蛙と遊んでいたこともあって100〜200円程度のミニフィギュアを
買ってきては食卓や花壇に飾って嬉しそうに見ている。
それにしても暑い。出歩くのも嫌。
と言いながら、祇園祭の宵宮には孫二人が子供神輿を引くというので京都の長男宅へ出かけ、
22日は孫の所属するオーケストラ演奏会に出かける・・・ということは元気なのかな。
曲目は、スークの幻想的スケルツォ・ベートーヴェンの交響曲第6番田園
・ブラームスのピアノ協奏曲第2番。孫はヴィオラを演奏する。
8月11日は姉と姉の孫たち、そして私の友人とで大阪フェスティバルホールでの大阪フィルハーモニー
交響楽団 による三大クラシックを聴きに行く。
曲目は、シューベルト/交響曲 第7番「未完成」・ベートーヴェン/交響曲 第5番 「運命」・
ドヴォルザーク/交響曲 第9番 「新世界より」
「運命」を生演奏で聴くのは初めてで、ピッコロの演奏を楽しみにしています。
本当に音楽は情景を想像させてくれる。素晴らしいです。
*老いて思うこと・・・
この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。
生命は死に帰着する・・・中村 元
この物体は老朽化し、衰えて病の巣となる。生命は死をもって終了し 腐敗した肉体は朽ちる
・・・North-Market CARE
「一期は夢のごとし。光陰は早く移る。露の命は消え易し」・・・随聞記三-3
以上、ダンマパダ148句
いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。
しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる
・・・中村 元
豪華な王の車も古くなり肉体も衰えるが ダンマの教えと善は古くならない
善人は必ず善い人々に伝える・・・North-Market CARE
「破戒なりとも還(かえって)得受(とくじゅ)せば清浄なるべし。懺悔すれば清浄なり」
・・・随聞記一−6 以上、ダンマパダ151句
どのように鍛えられた身体も 色香あふれる身体も 装飾品に飾られた豪華な車でも、
やがて朽ちてしまう。諸行無常なのです。
そして、思えば私も多かれ少なかれの過ちは有ったでしょう。
でもそれに気づき、それに対する懺悔心を起こし、自分への戒を言い聞かせ、自覚して老いを迎える
ことが私の精一杯の老いて思うことです。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように・・・中村 元
すべてのものごとは心に浮かぶ現象。
心がものごとの作者で心がつくっている。
汚れた心で話したり行動すると苦しみがついてくる。
車を引く牛の足跡に車輪がついてくるように・・・North-Market CARE
人の心本(もと)より善悪(ぜんなく)なし。善悪は縁(えん)に随(したがい)て起こる
・・・随聞記五−14
以上・ダンマパダ第1章・第1句
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように・・・中村 元
すべてのものごとは心に浮かぶ現象。
心がものごとの作者で心がつくっている。
清らかな心で話したり行動すると幸福がついてくる。
影が身体から離れないように・・・North-Market CARE
善縁(ぜんねん)あへば心よくなり、悪縁に近づけば心悪くなるなり、
我が心本(もと)より悪しと思ふことなかれ、只(ただ)善縁に随(したが)ふべきなり
・・・随聞記五−14
以上・ダンマパダ第1章・第2句
「如来法中 無有選択 吉日良辰(如来の法のなかに吉日良辰(きちじつりょうしん)をえらぶことなし)」
といえり・・・仏の教えの中に良い日、悪い日というのはない・・涅槃経
すべては自分の行いで良い日・悪い日が決まる・・・因果の理法。
自因自果であり他因自果でない。すべては己の心の成すところであり自因自果である。
他因自果でない。そこへ行くと怨み、妬みが生じるのです。
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*何故、そこへいくの?仏教経典のどこにそのことが説かれているの?
次のメールをいただきました。
「先日、義母の四十九日の法事を終えました。そのときにお坊さんが頻りと追善供養・先祖供養を
話していましたがネットで調べると仏教経典にはそのようなことは説かれていないようです。
あなた様のホームページに、毎日を出来る限り悪いことをしないで暮らすことが亡くなられた方への
感謝であり、それこそが供養だと記しておられます。
お坊さんを呼ばないと供養に成らないのでしょうか。初盆とか年回忌をしなかったら義母が恨んだり、
悲しんだりするのでしょうか。何故、そこへいくの?の思いでメールを送らせていただきました」
「そのようなことはありません。。普段は忘れている義母(おかあさん)をふと思い出されたとき既に
感謝の念に満たされているのです。それが供養です」と返信しました。
そこで、前ページにも記したことを私から僧侶の皆さんへもう一度問いかけます。
浄土へ赴くための名前(戒名)を授け、幸せに成る経を読み上げ浄土への導き(導師)を勤め上げたのに、
僧侶による何回もの供養をしないと亡くなられた方は彷徨い、途方にくれるのですか?
仏教の根本教義の一つである無執着って何なんでしょうか?
死んでから何故、修行を重ね悟りを開き仏=覚者とならなくてはいけなのか?
どの仏典にそれが記されているのか?あるとすれば何年ごろの成立か?
亡くなられた方を「仏さま」と呼ぶのは止めにしませんか?
亡くなられた方が安らかに眠りについてくれるのを只々願うのが残された方たちの想いではありませんか?
仏教の名を笠に着て、ご遺族の情に便乗する行為だと評されることは止めましょう。
*私の仏教観を変えた経典「法句経(ほっくきょう)」と「相田みつを全集」・・・
私たちがこれこそ聖なる仏典だと高く掲げるかずかずの「大乗仏教経典は「法句経」を母体とし、
母なる大地として生まれていったのです。
「法句経」は何千巻という仏典の「母乳(ぼにゅう)」なのです。
「法句経(ダンマパダ)の母乳(ははちち)なくして大蔵教はこの世に生まれ出(い)ずることも
育つこともできなかったのです。どうかこのことを肝に銘じていただきたい
・・・高瀬広居著「法句経からのメッセージ」
『法句註』を参照することにより、『ダンマパダ』各詩偈の教えがはじめて理解される。
本書では、その教えを解説する中で、主に『正法眼蔵随聞記』の記述を併せて取り上げ、
釈尊から阿難へと伝承されていくごとく、道元から懐奘へて伝えられた教えも、伝統を尊重する視点から
見れば、一つの共通する、まさに真実の仏法を説いていることを示す。
・・・片山一良著『ダンマパダ』全詩解説―仏祖に学ぶひとすじの道 。new23.html へのリンク
「生・老・病・死」を諦かに観察し、その上での死と死後行事を重視しない「ダンマパダ」と
理解しにくい経典を独特の書体で、短く平易な自らの言葉として書き記された
「相田みつを全集」が私の聖典です。
また私にとっての法話は、くどくどと葬儀作法や死後の行事に関するものではなく、
庶民の日常生活にから発せられる活きた言葉です。
次回は その9 です
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