何でもメモ・3
 青字は私の言葉です。
平成23年4月4日、びわこ大津館(http://www.biwako-otsukan.jp/)
お話し会・メモより。

「過去と未来は観念の産物。過去=現在における記憶、未来=現在における予想。
 現在にこそ、時間があり、生きているということでしょう?
 この、生きていることを切に生きる。というのが禅宗の教えでしょ?
 禅僧にとっての三世とは、先刻(さきほど)、後刻(のちほど)、只今でしょう?
 見知らぬ前世を言い、確認できない来世を説くようでは禅僧ではありませんよ。
 そして、道元さんの目指したのは出家者中心の仏教でしょ?座禅によって自分の哲学を
 培いなさい。と教えたのでしょう?今の僧侶の中に出家者っていてるの?」・・・
某、国立大学哲学部・大学院の修士課程を修了した女性の問いかけ。
彼女はコンピューター・ソフト制作会社勤務。ご主人は同じ会社のハード部門勤務。
とのこと。
この世のことは単なる通過点に過ぎない。だからこそこの通過点の主役である自分自身を
切に生き切る。これが仏教の祖・お釈迦さまの教えです。
禅僧であるなら、小賢しい能書きを垂れる暇があったらこのお釈迦さまの教えが
解るまで、ただひたすら座すること。出家者と名乗れる僧侶は先ず居ないでしょう。


「仏式葬儀に疑問を持つ人、仏式葬儀の必要性にこだわらない人の共通する視点は、
 仏教に説かれていない仏式葬儀と、遺族のやるせない感情に便乗するだけの僧侶の
 資質を問題視していること」。

1000人もの社員を束ねている社長さんの言葉


「町なかに溢れている庶民の言葉は菩薩の言葉。
 多くの坊主の説法は実践が伴っていない
ただの言葉遊び」
京都の名刹と言われる門前の商店主の言葉。


「近くに曹洞宗の寺がある。そこの次男は見るからに兄への劣等感が強い。
 事あるごとに”副住職です”・・・坊主の役職なんて只の糞。
 そして、仏式葬儀と僧侶の妻帯にかんして、異常なほどの正当性をのたまう。
 正当性を主張すればするほどドツボに嵌まるだけなのに。
 日本仏教って大乗仏教ですね?でも、それは司馬遼太郎先生が言っておられるように、
 
大乗仏教は釈迦の仏教とは断絶したものです。
      ひょっとすると全く違ったものかも知れません。
の言葉通りです」
「子供たちに、寺と縁をもってはいけないと教えている。」・・・京都在住の方の言葉。
寺族の俗よりも俗なる姿をモロに見てしまったのかな?


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お念仏・・・
法然は念仏が生活の軸。親鸞は、弥陀の絶対他力を素直に信じるだけで、
すでに救われているのだから、死後の行事など要らない。
それでも、遺された人が死後の行事にこだわるのならそれは単なる作善行為にすぎない。
その作善行為すらできない人(悪人)を救い下さると信じ、弥陀のおちから(他力本願)
を信じ切る人こそ、お救い下さるといわれる。
と、語り続けている・・・
宗祖の言葉 参照

念仏の心がまえを問われた一遍は・・・
「南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。
諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの
要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。」

南無阿弥陀仏と唱える以外に、心がまえなんてない。
有識者が説いている教えも、所詮かりそめのものにすぎない。
念仏について考える暇があったら、ただひたすら唱える方がいい。
仏教に限らず、多くの古典で訴えられ続けていることのひとつは、
「いつやるか? 今でしょ!」なのである。
胸のうちに決めたものがあるなら、心がまえだのを問うて、形から入ろうと格好を付ける
暇があるなら、何も考えずに今すぐにやれ!ということ。

「念仏者の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄おそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ」「仏道とは捨ててこそ、全てを任せる」
一遍は智恵も愚痴も、善悪の境界も、貴賤高下の区別も捨て、
地獄を恐れる心も、極楽を願う心も、悟りもすべて捨てろと説く。迷いかけたら、
とにかく捨てて、思うがままに進め!それが阿弥陀仏の本願にもっともかなうのだと。

「かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理も
なし。善悪の境界皆浄土なり。
外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。」

すべてを捨てて念仏を唱えていれば、仏と私の区別をはじめ、
どんな区別もなくなっていく。善悪どちらにも浄土はあるのだ。
生きとし生けるものをはじめ、世の中すべてのものが念仏であり、
人間だけが阿弥陀仏の本願の恩恵を受けているわけではない。

「ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏」
頭がすっからかんになるまで、南無阿弥陀仏と叫べはいいのだ。
その場に座するか(禅)、念仏を唱えて踊るか(一遍)、とにかく頭を空っぽに
できるなら、方法はなんでもいいのだ。
仏教を離れて、より身近な話に置き換えるなら、時間も忘れ、夢中になって遊べるものを
探し続けること。それが人生で大切なことのひとつ、ということだろう。

*仏教は自らのはからいを「捨てる」宗教


ネットより・・・
ブッダは、母・父への感謝は説かれたが、「読経によってそれが成される」とは説かない。
心を整える人は三毒(貪・愼。痴)を収める。
その心の整え方を実践し、その姿を他の人が見たとき、その人が菩薩。
その人の言動に心打たれる。

仏法を伝えてきたからと言って先人に盲従することも正しくないでしょう。

葬儀に於いては全て金銭が絡んでいる。金銭が絡むことによって地に堕ちるのでは?
仏弟子として与える戒名にも金銭の多寡によって位が変わる・・・
弟子になってもらえる人たちからも金を取るの?!!
各宗祖が命を賭(と)して説き広めた教えの中に、葬儀にかかわることと、
死後の行事で受け取る金銭を家族の生計に当てよ。という教えがあるのか?!!
日本に於ける出家とは、通過儀礼として、また、僧侶の姿は形だけのものでしかない。
・・・日本仏教、それに携わる寺族を覚めた目で見ておられますね。
                  
                次回は その4 です。

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