各宗祖の言葉 宗祖に始まり、宗祖に終わる

         
     

       庶民だけでなく勿論、僧侶に対しても憤怒の相で仏門に入らしめんとする不動明王。
              宗祖の言葉に背を向けている弟子たちも睨まれていますよ。
            1994年作・総高 50㎝ 長男が経営する会社に置いています。
いつからかしら、葬儀と死後の行事は寺・僧侶がするものだと思い込み、庶民に思い込ませ、
お布施と称して金品を受けもらい、寺族の生活費に充てることを各宗祖は良しとされているのか?
戒めておられたのでは?良しとされるなら日本仏教は 宗祖に始まり、宗祖で終っている

以前、ドナルド・キーン博士が、私に、
「日本史を見ていると、学問や思想上の巨人が出ます。しかし孤立しています。
巨人が出て学問や思想が展開されたあと、そのあとの人々がそれを深く掘り下げるか、
別の方向に別なものとして展開しそうなものなのに、その巨人だけで終わりますね」と
言われたことがあります。特に近代以前にその傾向が強いということでしょう。
私はそれを伺って、キーン博士に敬服してしまいました。
私は言われるまでそんなことを考えたことも無かったのです・・・司馬遼太郎


最澄(天台宗)・・・
「死はこの世との断絶を意味し、いつまでも悲しまず、人間としてこの世に生をうけたことを
自覚し、そのような暇があれば修行せよ。
(僧侶は)すでに世を去った者のために費やしてはならぬ」
・・・ガルーダ編/名僧の生死観
この言葉は葬儀・死後の仏事を職と成す僧侶を厳しく戒めています。

また、「我がために佛を作る勿れ、我がために経を写すこと勿れ、我が志を述べよ」と言われた。
この言葉は「わたしを敬うのではなく、説いた真理(法)をよりどころとし、おまえたち自身を
よりどころとして教えを歩んで欲しい」というブッダの遺志を忠実に守ろうという表れです。

空海(真言宗)・・・
インドから中国へ伝わった仏教はヒンズー経の影響を受けた教えであった。
空海はその中の密教を重視して日本に持ち帰った。
密教は「身(からだ)で印を結び・口で真言を唱え・心を静め(禅定に入り)一心に大日如来と
合体することにより現世において涅槃の境地(悟りの境地)に到達でき成仏できる
「即身成仏」と教える・・・死んだら仏に成る(死後成仏)とは教えていない。

「成仏」とはこの世において、悩み悲しみを明らかに見据え仏陀(覚者)に成る
(成就=成し遂げる)ことを言う。
死んだ人を仏と称し、形だけの僧侶が葬儀に邁進することを宗祖は見抜かれ、
次の言葉を遺されています。
「頭を剃って欲を剃らず、衣を染めて心を染めず」
「道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」・・・
頭を剃って出家しても欲を捨てきれず、
きらびやかな法衣を身につけていても、仏道を修する心がけがなければ姿、形だけの者でしかない。
いかに、立派な仏の教えを聞いても行動しなければ、仏道とは遥かかなたのものにすぎない。
これをわからぬ者が死後の行事を執り行う資格などない・・・と諭されているのでは。

法然(浄土宗)・・
「跡を一廟に留むれば遺法あまねからず。念仏の声するところみなわが遺跡なり」
「孝養のために精舎建立のいとなみをなすことなかれ」・・・
弟子から上人のお墓はどこにしましょうかと問われ、答えたものです。
~わたしの遺骨、法要、墓などにとらわれてはいけない。わたしの教えがそこで留まってしまう。
念仏者にそのようなものは必要ない~            


「もう、既に法然の教えは止まっている」・・・知人の言葉

浄土は十万億土の彼方にあるのではない。阿弥陀仏に生かされている。その心こそが浄土。
生きるための念仏であり、死んでからの念仏ではない。
「たとい余事を営むとも、念仏してこれをする思いあるべきなり。
  余事をして念仏せんと思うべからず」

念仏により阿弥陀仏に帰依することができるのであり、念仏者に臨終の儀式などは必要ではない。
ましてや家業に携わるひまに念仏しようとか、他人(坊主を含む)に念仏してもらおうなど思っては
いけない。ただ、念仏を軸として生活に勤しみなさい・・・

浄土宗の僧侶の中で、葬儀においてこのことを正直に伝えているのは何人いるでしょう。
宗祖の回忌を声高にうたい上げる弟子の姿と知恩院の存在を法然はどう思うでしょう。
また、念仏で往生したはずが故人の追善供養で寺が経営されている現状を法然は如何に思うか。

親鸞(浄土真宗)・・・
歎異抄・第三章 「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」・・・悪人正機 
~自力作善の人は、ひとえに他力を頼む心が欠けている。その善人が救われるのなら、
自分がどうしょうもない悪人であるという自覚の上に立ち、この上は弥陀の本願にすがるほかは
ないと思う者も弥陀は救ってくださる~
「悪人正機はどんな悪いことをしても救われるという『造悪無碍』ではない。
親鸞は、自力修行に励もうにもできない、煩悩に満ちた俗人であることを自覚して、
永遠に悟りも得られない、救われがたい凡夫であるという思いから、悪人正機を説く。
つまり、そういう愚凡でどうしょうもない悪人を救うことが阿弥陀仏の本願であり、
悪人こそ往生せしめる対象であるという考えである」
「薬あればとて、毒を好むべからず」
本願という薬がある。だからと言って、毒を好む(悪事を働く)ということはゆるされない。

歎異抄・第五章 「父母の孝養のためとて 一返にても念仏もうしたること いまだそうらわず」
わたしは、親孝行といえども亡き人に念仏を唱えたことは一度たりともありません。
阿弥陀さまの本願(他力)を信じ、絶対的な弥陀の誓願(絶対他力)にゆだねている私です。
その私が阿弥陀さまの代わりに亡くなられた方に唱えるものではありません。
そのような行いは、阿弥陀さまの方から私たちへ救いの働きをし続けておられる。
ましてや阿弥陀さまが私たちを救わずにはおれないという誓いを無視した自分勝手のものであり、
迷いそのものの現れである

親鸞は念仏者が自分の善や施物を亡き人に回向する作善行為を否定され、次の言葉を遺しました。
「閉眼せば(わたしが死んだら)、加茂川に投げ入れ魚に与うべし」・・・『改邪抄』
すべての自力作善を否定し、阿弥陀さまの誓願(絶対他力)にゆだねたときすでに真の往生が
証果されており、 一度往生が果たされたなら、その亡骸は物として朽ち果てるだけであり、
浄土真宗の信徒(門徒)に葬式や死後の行事、そして墓などは無縁のものです。
極楽往生した者にどうして墓など必要でしょうか。
もちろん、お彼岸とかお盆に亡き人がこの世をなつかしがって立ち帰り、
その日のうちに供養しなければ往生できないとは説いていません。

「臨終即往生」・・・命つきるとともに極楽浄土に往きて生まれかわっている。
「浄土に往生する」とは「浄土に往きて生まれ変わることで、死後に霊魂や魂のような形で
生まれ変わることではなく、浄土に還り生命の完結とみなす。
生きる過程を阿弥陀さまの本願(他力)にすがり切り、信じ切り、生き抜くためのものです・・・
肉体の葬式に力を入れずに早く魂の葬式、即ち信心決定に力を入れよ。これが親鸞の教えです。
親鸞聖人は信心決定した時をもって、魂の臨終であり、葬式だと教えられたお方です。

覚如上人も
「平生の時、帰命の一念発得すれば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし」と
仰言っているように、弥陀にお任せしようと信心決定した人は、もう葬式は終っているのです。
だから、真の門徒にはセミのぬけがらのような肉体の葬式など、最早問題ではないのです。

*「門徒、もの知らず」ではない。葬儀、死後の行事に囚われない「門徒、忌もの知らず」です。

それにつけても、葬式や法事や墓番を任務のように心得ている今日の浄土真宗の坊主達は、
この親鸞聖人の御金言を何と味わっているのでしょうか。悲しまざるを得ません。
真実を知らされた者から、この真実を叫び伝えてゆきましょう・・・
ネットより

一遍(時宗)・・・
「没後のことは、わが門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず、
       わが亡骸は野に捨て獣にほどこすべき」

~わたしを慕う者へ言っておく。わたしの葬儀などは要りません。
わたしは念仏により阿弥陀仏となりきり、すでに現世において極楽往生しているのです。
念仏者に葬儀・死後の儀式は不要です~
「おのづから 相いあうときも別れても ひとりは いつもひとりなり」
~自分の考えは自分一代であると述べて、往生する前に自分の持ち物はすべて焼き捨てた~
「日日、是臨終なり」
~過去を悔やまず、明日を憂いず、今(今日)を生きなさい。今日の命は今日しか無い。
明日無きときはすでに弥陀の懐に抱かれている~
*佐江衆一・著「わが屍(かばね)は野に捨てよ。一遍遊行」を読んでください。
 武士の出であった一遍が、念仏とは何か?念仏によって活かされ、生きるありがたさに
 気づいていく過程が綴られています。


道元(曹洞宗)・・・「忌日の追善、中陰の作善などは皆、在家に用ふることなり」。
「死するとき、ともするものは業報(ごっぽう)のみ」
~死後の仏事は在家の人達がすることである。亡くなるときについてくるのはその人の成した
事だけであり、他の人が(僧侶も含め)どうこうすることはできない~
というブッダの教えを道元は忠実に学び、知りえていたのです。

道元に始まるのが曹洞宗である。曹洞禅の基本=道元禅は、自身に存在する仏心を
ひたすら座禅により見つけよと教えた「只管打坐」である。
座禅以外に何かを求めてはいけない。座禅がなにかの手段であってはならないのである。
宗祖は葬儀・祈祷などにより金銭を受け取り、現世理利益を風潮する行為を認めません。
しかし、いつからか自力本願の禅宗が檀家を持ち、
わが子や妻を檀家の布施(お金)=他力・で養う行為は宗祖に背いているだけでは?
来世を説かないはずの禅宗が、最も影響力の大きい葬送儀礼=亡僧喪儀法( ぼうそうもぎほう
を有し、葬式仏教の規範となった。

「分かりやすく言えば仏式葬儀とは、亡くなった人を修行半ばの僧侶に見立て、その僧侶の
 死を弔う儀式。死んでからにわか坊主に見立てられる儀式なんて、御免被るわ。」・・ネットより

「どの仏典にも説かれていない死後の行事でお布施と称して金銭を受け取り、
妻帯、世襲は当たり前。僧侶の世襲って梨園気取りか?
道元がそれを良しとするならば、曹洞宗なんてものは職業坊主の単なる言葉遊び、戯論でしかない。
釈迦の教えに最も近いとされている曹洞宗こそが、宗祖にはじまり・宗祖で終わっている。
そもそも、布施とは
人に施しを与え、己の欲を捨てる行(修行)のこと」・・・ネット掲載文

道元はお釈迦さまの教えに忠実で「死者の追善法要などは在家のやることである」と教えている。
父母の恩を思うことは大切だけど、それと形骸化された仏式葬儀は関係ない。
ということである・・・日本仏教開祖の認識・2より。

「澤木 興道(さわき こうどう、道号:祖門、1880年6月16日 - 1965年12月21日)は、
昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。
日露戦争で徴兵された折りには、塹壕(ざんごう)で震える上官を殴り飛ばす。
あるいは空漠な理屈に耽る僧たちの顔に放屁ひとつで批評する。そして、生涯、妻も寺も持たず、
金も名誉も肩書も、悟りすらも求めない坐禅に身心を投げ入れて生き抜いた禅僧だった」

この僧侶を曹洞宗の僧は如何に思うのだろう・・・そして、道元禅師の弟子・玄明のことを。

日蓮(日蓮宗)・・・
「鳥と蟲は鳴けども、なみだおちず。日蓮は泣かねど、なみだひまなし」
「墓に向かい、法華経をよみきかせることは、かいなきこと」・・・ガルーダ編/名僧の生死観
日蓮の涙は時間と空間を超越して真理を説き続ける久遠の仏陀の大慈悲を思っての涙である。
これを解らずして死後の行事に翻弄され、墓に向かって経を唱えることは、かいのないことだよ。

「葬式で坊さんが唱えるお経は
✕ 死者の霊を慰めるため
◯ 残された家族の執着を断つため
なのに誰にも伝わってない理由は、遺体の方を向いて素人には理解不能な漢文で唱える上、
その辺の説明をしないから。遺族側も形式さえ整えば内容は興味がないから」・・・ネット掲載文
*説明しないのは、亡くなられた方への言葉ではないことがわかるから?
  経典に死者への言葉はありません。経典を唱えることで亡き人が浮かばれる

葬儀において引導を渡し成仏したはずの霊に対し、なお長期間の追善供養を行うことは、
霊が成仏したことをみずから否定していることになる。
施餓鬼会なども同様である
・・・ネット掲載文

ブッダは言われた・・・
「生涯のあいだ、悪しきことをしてきた人は、重い石が池の底に沈んでいくように地獄へ
落ち込むのは当然である。
悪しきことをせず、善き行いをしてきた人はバターや油を入れた容器は沈んでも、
バターや油そのものは水面に浮かび上がるように自ずと天上界に生まれかわる。
いくら大勢の人が集まりガヤガヤわめいても、沈むものは沈む。浮かぶものは浮かぶ。
それは皆、自身の行為の結果であり、他の者はどうすることもできない」
・・・

よって、僧侶が如何に衣を飾り、経を唱え、木片を燃やし、念仏を唱えても、亡くなられた方をどうこうする力などあり得ません。思い込まされているだけのことです。現代語に訳することなく僧侶は葬儀・死後の行事で経を棒読みしているだけです。皆さんはその声に満足しているだけのことです。
僧侶が経を読み、責任を持って亡き人の行き先を決めることなどできません。

「死とは葬式とは・・・しかし、そこに坊主が果たして必要か?
 経を読むことで亡くなった人が成仏できるという教えが仏教にあるのか。
 坊主が勝手に思い込み、屁理屈をくっつけて、それを庶民に思い込ませただけのこと。
 庶民に責任の一端などありえない。
 坊主が葬儀、供養をしなかった人は成仏できないとするならばとんでもない差別だ。
 世界で最も無意味な仏式葬儀。死んだら輪廻転生するので、死体は物に過ぎないってはずなのに。
 葬儀だ墓だと、死者ビジネスがメインになってるのが可笑しい」・・・ネット掲載文

「仏教は、忘れること=無執着を説く。なのに年回忌って変だよな」・・・ネット掲載文

葬式は生活の糧となるから執り行うだけで、金銭の授受がなければ振り向きもしなかったであろう。

日本の仏教は葬式仏教と言って、分業化した葬儀屋だから・・・ネット掲載文

 宗祖を神格化してしまうと宗祖の教えは、もはや無きもの。・・・ネット掲載文

荻生徂徠、曰く
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、
自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、
世間の費(つい)え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、
錢取りのため執行ふたたび多し』  
          

                次回は ブッダの言葉です

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